チー牛という言葉が何を示すのか。秋葉原に居そうな服も吟味せず自身のケアもしないメガネのオタクがそうだとか、小学校のクラスメイトで思い出せないレベルだとか、勘違いして暴走する救いようのない童貞がそうだとか、侃侃諤諤の主張がここ数日よく見られる。共通しているのは、チー牛の三文字が弱者へのレッテルとして、また精神的な嫌悪として十把一絡げに属性を与える便利な言葉というところだろうか。
私も便利な言葉だと思っている。その言葉を使う人間の露悪的な本性と、犬畜生に等しい浅ましい性格がすぐさま見れるという点において、大変便利だ。
しかし考えてみれば、朧気な記憶で発達障害や就労支援に来るやつを示そうとして、チーズ牛丼を頼む者のイラストが合わさった途端、猫も杓子もチー牛チー牛と弄り出したのは不思議なものだ。他の料理でもやってみればどうだろう。二郎系ラーメンとか、コラボカフェのケーキとか、ケバブとか、マックでもいいかもしれない。どんどん試してウケれば流行るだろう。第二のチー牛は何になるのだろうか。その料理を頼む人間をうまく可視化するのは、中々に知恵がいるかもしれない。
興味深いのは、この言葉を投げつけられる諸々の人でさえも自虐とする時がある事だ。彼らはどのような心理を抱えて日々を生きているのだろう。特に好物でもないであろう一杯の牛丼を食ってそうなどと言われ、言い返そうにも寄って集って囃される時、もはや同調して引きつった笑いを浮かべるしかないと思うが。人並み以上に精神を蝕まれているだろう。彼らが少しでも早く『世の中も案外捨てたもんじゃない』と思える時が来ることを願いたい。本来は社会がそれを分かりやすい形で与えるべきだとは思うのだが。
なお最後に添えておくならば、私はチー牛という言葉とそれに連なるムーブメント、自虐を除いてその言葉をそうした意味で使う人々について、徹底的に批判する者でありたい。
何の疑いもなく、食物を粗末にする馬鹿な連中である。悲しい哉、子供の頃に親から教えてもらわなかったのだろう。世間では何食わぬ顔をしていようが、頭も性格も凡そまともな訳が無いのだ。コンビニのおにぎり一個に飢え、生活に喘ぐくらいまで落ちればいい。
チー牛というネットスラングが戒められるその時に、その言葉を軽率に使い、また多用してきた者らはどのように『しらを切る』のだろう。それが今から楽しみで仕方ないのである。