ぺニスの大きさ、と言ってしまった時点で加担してると思う。性的加害に。
なぜなら、大きい、という考えがすでに、サイズ比べの視点を持つから。
「ペニスが小さい」→ NG🙅♂️。小さいとは、何と比べて? 普通との相対比較に他ならない!
小さければ良い物なんて、存在しない。
お年を召された方々が悪ぶったノリと違ってごくごく自然にキチガイとかカタワとか言うのを聞いて「おお……」って思うように、おれも「肌色」とかポロっと言って「おお……」って思われるような時が来るんかなって思った
見たので感想を書く。
まあまあ面白かった。
けど売れなそう。地味で暗くてエンタメ性がそんなに高くないし、アニメーションとしての凄さ、新しさは特になかったから。
奇しくも昭和生まれの特大IPゴジラと、同じく昭和生まれの長寿IP鬼太郎がほぼ同時期にどちらもプリクエル的な作品を公開したということで、せっかくなので比較して語りたいと思う。
映画としてのエンタメ性や、興行収入、話題性、邦画史におけるインパクトなどはゴジラー1.0の圧勝だった。これは両作品を見た人ならだれも異論はないと思う。
でも、本当の「昭和」を描けていたのは鬼太郎だったと主張したい。
(ゴジラが1947年の話なのに対して、鬼太郎は1956年の話と10年程の開きはあるんだけど、まあそこは置いといて。)
ゴジラの戦中戦後の描写、登場人物の行動原理ってほぼパラレルワールドの昭和だったと思うんだよね。
色んな人が散々指摘してると思うので細かくは書かないけど。
一方で、鬼太郎の昭和はよく知ってる昭和だった。あのタバコまみれの空間や明日を信じて疑わぬ企業戦士たち、犬神家のような農村、狡賢い狸おやじたちに支配された社会。
先にゴジラを見ていたからこそ、あーこれが本当の昭和だよね、となった。
鬼太郎はちゃんとこれまでの「昭和」(それは実際のリアルの昭和だけでなく映画や小説で描かれてきたフィクションの昭和を含むものだけど)のイメージを踏襲して紡がれたストーリーであり演出だった。
ポコチャで推しに課金して投げると推しが「ありがとー増田さーん!」ってお礼してくれて、そのあと音楽に合わせて「チュッ可愛くてごめん!」って踊ってくれる。
それを観て「可愛いー!」って言いながら踊ってる俺を娘が冷たい目で見てる。
トスカーナパンは塩が入っていないことで有名で、「まずい」と誤解を受けやすいパンです。塩や砂糖で味をつけないことから、イタリアのパンの中でも最も素朴なパンといわれています。
トスカーナパンが塩が入っていない理由には、次のような説があります。
大昔、塩の増税に対抗して塩抜きにした
トスカーナパンは、サラミやビステッカ(ビーフステーキ)、兎や猪などのジビエ料理、オリーブオイルなど、全体的に強い味のトスカーナ料理には驚くほどぴったりです。