2023-11-26

かに話したい自分の不幸があるとして

まず秘匿する、共感を得させる、笑い話に昇華させるというパターンに分けられる。

こんなにも苦しみに溢れている社会

自転車を漕ぎ続けなければ倒れてしまうように、我々の生活は常にエネルギー必要としている。更に、エネルギーを消費すれば老廃物が出る。

フケであり、抜け落ちた髪であり、取り払われない砂塵である

取り敢えず、人はその老廃物が蓄積されていない状態を秩序的である、と定義した。

人は半身が生き半身が死んでいるような物だと私は考えている。死んだ細胞は常に体の何処かに付随している。例として爪があげられる。

捨て切れない痛みの記憶なり過去恋愛歴もそうだ。常に新しい自分では居られない。

まれ、育ち、遺伝的要素、それから容姿

親の資産という要素は重要だが、何れにしても生命維持活動を行わなければならない。

富や名声程度で生きづらさは軽減されなかった。それらは喪われた時に人を疎遠にさせた。

幸福を何と定義するかによって、人々は苦しめられる事にもなる。

生きる為に走れば走る程違う景色が見える。見えた景色の中の物を手に入れられれば幸福なのであれば、人の欲は際限がなく、また満たされない無限ブラックホールのような存在ともなる。

幸福な誰かがいる時、自分幸福に気付こう、招こうとするバイアスがかかる。

絶対的な死を前にした時、その不幸は共通概念となり分かたれる。

出産であっても、幸福前後には苦しみがあり、まさに禍福は糾える縄の如しであると感じる。

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