2023-02-09

発達障害の人が「発達障害定型発達の違い」を言語化したがる理由

定型発達の人の見ている世界

https://anond.hatelabo.jp/20230207033104


上記文章に対してブコメ定型発達の人の見ている世界はそうじゃないとか、定型発達の人の上辺だけ見て的外れとか意見がついていたので、

同じ発達障害者として、なぜ発達障害者は「発達障害定型発達の違い」を言語化したがるのか、

そしてそれがなぜ的外れと言われがちか、

その理由説明したいと思う。

(なお自分上記文章を書いた人物ではない。)


結論としては、発達障害者が「発達障害定型発達の違い」を言語化するのは、

主に当人自身が、自分生来抱えてきた不条理分析理解するための行為であって、

その分析の途上の文章インターネットに公開されがちなため、傍から見て分析不正確に見える場合があるのだと思う。


だいたいの発達障害者は、物心のついた頃から不条理を一身に抱えて生きてきている。

他人と同じことが自分だけうまくできなかったり、当人にとってわけの分からない理由いじめを受けたり、

発達障害者人生は、そのようなことの連続である

それは大人になってからも続き、就職結婚といった人生重要イベントにも深刻な影響をもたらす。

そこで発達障害者は、なぜ自分他人と同じことができないのか、思いつめることになる。

しか発達障害者本人には、その原因はなかなか分からない。


発達障害という概念は、上記のような不条理の原因の多くを説明してくれる画期的ものだ。

自分物事をうまくできないのは、これが原因だったのか!

何十年も生きてきて、初めて分かった!

発達障害概念を知った当人は、その概念自分人生の悩みの多くを説明してくれると思い、

人生不条理説明するための「言葉」をはじめて得る。

そしてその言葉を使って、自分他者の違いの分析を始めるのだ。


発達障害者の語る言葉が、「発達障害定型発達の違い」という二分法に偏りがちなのは、ここに由来する。

本当は、定型発達にも発達障害にも様々な人がいて、

発達障害という概念だけでは、実は自分の悩みを説明しきることはできない。

しか当人がそれに気づくのは、もう少し分析を進めてからの話だ。

特に分析の初期においては、障害の有無という切り口から分析スタートするため、二分法に偏りがちなのである


そのような分析は、物事言語化するのがある程度得意な発達障害者であれば、

ほとんどの人が通る儀式だといってもいい。

発達障害者自分の抱える不条理を、感覚的に理解することが困難で、

その理解には分析言語化必要だ。

そのような行為を通じて、発達障害者自分他者理解していくのだ。


そのような分析には何年、何十年もかかったり、あるいは一生かかったりする。

もし分析を十分に満足に行えたとしたら、悩みにも区切りがついて(悩み自体解決はしないが)

それを言語化したいという動機がもはや失われてしまう。

そのため粗削りな分析の途上の文章が世に出てきがちなのだ

発達障害者文章的外れに見えても、それは当人がもがきながら自己理解をしていく上で必要行為なのだ


ではなぜ、その自己理解のための文章インターネットにわざわざ公開するのだという話になるが、

それは発達障害者にもやはり、他者自分理解してもらいたいという気持ちがあるからだと思う。

自分分析結果を公開することで、自分理解されるようになるかもしれないと、心のどこかで思ってしまうのだ。

その方法他者理解を得るためのベスト方法ではないかもしれないが、

発達障害者には、それ以外の方法が分からないことが多いのだ。

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