岸田首相が総裁選に出馬を表明した際に「岸田ノート」を取り出して熱心にアピールしていた。
あれが私の中で彼を「支持しない」決め手になった。
何年も国民の声に耳を傾けてきた結果があの大して汚れても擦り切れてもいない、たった一冊のノートなのか。
もちろん実際にはいつも持ち歩いているノートを取り出しただけで、書き留めていっぱいになったノートは何冊もあるのだろう。
しかしそれを根拠に「聞く力」をアピールするのであれば、いくらわざとらしかろうとそれらをカメラの前で山積みにして訴えるくらいの演出が必要なのではないか。
ところが手持ちの、しかも綺麗なノートだけで済ませる。ここに彼の上辺だけの政治感覚が見て取れる。
私はノートやメモを取るタイプの人間には学生時代や社会人になってからもよく出会ったが、本当に熱心にノートに書き込む人のそれはもう見るも無残なほどボロボロだ。新しいものに取り替えたかと思えば数日経たないうちにまた薄汚れて擦り切れている。
もちろんそれだけでその人の努力や実力が推し量れるわけではない。
だが一市民の実感として、やはり苦労してきた、努力してきた人間のノートはすべからくボロボロという認識がある。
彼が掲げるノートにはそれがない。新品を使い、見栄えだけ重視したというのなら逆効果だ。
この薄っぺらいノートアピールは今も街頭演説で続けている定番パフォーマンスらしい。
あのノートを振りかざせば振りかざすほど私のような人間は冷めていく。
聞く力をアピールする一方、他人の「見る力」、視線には無頓着のようだ。
国民感覚・目線の欠如の現れと言ってもいい。国民の声から今まで何を学んできたのか甚だ疑問である。
自民党の政治家は自分たちを支持する声こそが国民の声であると考えている節がある。
先日「国民の認識とかなりずれているのではないか」などというコメントを出した茂木幹事長もまさにこのタイプであるが、
岸田首相も例に漏れずといったところだ。おそらく彼が耳を傾けても素通りする国民の声がたくさんある。
表層だけ取り繕う優等生タイプの人間はよくこういうことをする。
「大人はこういうのが好きなんでしょ」とばかりに他人が好みそうな綺麗事や正論を並べて評価を乞う子供そのものだ。
だが実際にはそういった打算は見透かされる。岸田首相も同じだ。
あの総裁選の表明演説で、ノートと同じくらい薄っぺらいこのパフォーマンスが、彼の本質だと強く感じたのだった。
安部元首相の国葬決定についても同じである。国葬を行うこと自体の是非はここでは議論しない。
しかし四十九日どころか十日も経たないうちに…つまり多くの人間が故人の死を悼み、それと異なる言説は表明しづらい状況で…
おそらく岸田首相が中心となって足早に決定してしまったことには強く抗議したい。
結局この不意打ち的な決定はやはり彼の「上辺だけの政治感覚」で「こういうのが好きなんでしょ」そのものなのだ。
こういった他人の感情や世の情勢を利用した打算的で卑怯な政治プロセス、立ち回りが、国葬のみならず今後様々な政治的場面で発揮されていくかと思うと本当に憤りを感じる。