そして自称することによるウロボロスを退治したいとも思っている。
私たちが否定的な弱者属性を自身の特徴であるとするとき、大抵は自身の行為によることが多い。
私は〇〇しかできないから弱者だ。私は○○だから弱者だというときに、○○は本人に依るだろう。
だから○○をしない、○○ではない状況であれば彼は弱者ではない。
しかし話はそう単純ではないだろう。
限界まで普遍的であるとはいえるが、いかなる想定を超えてまで普遍的であるとは言えないのだ。
つまりある文化や社会、グループにおいて弱者であるとされていても、別のグループでは弱者にはならない可能性は常にあるのだ。
これは自称であってもそうである。自称は他称によって得られるものだろう。
さらに現在のグループであっても、グループが何らかの変化によって、または破壊によって定義は変化する可能性もある。
そう考えると、他称されることとは一時的な承認であると言える。
一時的な承認であるが、自称となった(他称から自認へ)場合、承認者は自己である。
こうして彼はアイデンティティを獲得するわけだが。
弱者である場合(と私は仮定するのだが)、そういった自己承認はほぼ不可能なように思える。
それがどれだけマイナスなものでも、可能な限り事実であったとしてもだ。
どれだけのマゾヒストなら自身にとってネガティブなことを自分が承認できるのだろうか、ほぼ無意味だと思うだろうというのが一点と
弱者の自己否定性を考えれば、その自己承認がどれだけの意味を持っているのだろうかというのが二点目だ
私が思うに、弱者による自称は、自称っぽいがほぼ他称であるだろうということ。
そして自己承認をされなかった自称もどきは、ひどくもろいだろうということだ。
こうなってくると、アイデンティティを一時は獲得したもののすぐ壊れてしまい、彼のアイデンティティはすぐに無くなるだろう。
私はここまで考えると、"弱者であること"に類するの定義にはアイデンティティの獲得の失敗を含めておくべきだろうと思う。(獲得したとしても本当に短い時間だろう)
こうしておくと、かなり良いことがある。
なぜなら、自分が弱者である(弱者であるというアイデンティティ)と言うことが不可能だからだ。
弱者を自称することが無意味なのだから、自分が本当に弱者かどうかということを考えることは無意味だ。
もちろん他称としての弱者は残るので、結果は変わらないし、彼はアイデンティティを獲得できない。
偽物のアイデンティティを獲得してぬか喜びする必要はないし、取っては壊れ取っては壊れるというような賽の河原の石積みのようなことはしなくていい。
では弱者は何も言えなくなってしまうと思うだろうが、アイデンティティを獲得を失敗したと自称することはできる、私が言いたいのはまさにその点にある
私が思うに、もし弱者がいて、弱者と他称されていて、弱者が弱者と自認でき、そして自称が広く他者へ承認されている場合
そのケースはあり得ない、あったとしたら、もしそれを可能とすることができるのならそれは弱者ではない。
想定される弱者のケースとは、弱者と他称されていて、弱者は自分を弱者だと言えず、言えたとしてもほぼ他称の自称を言い、そしてその自称は自己または他者によって簡単に否定されるものだ。
まぁこういうと、否定されることによって弱者は完成するのだが、もし否定する人と弱者になりたい人が共犯的な関係を作り出してしまうこと、そしてそれを意図して行われてしまうともうよく分からないことになるだろう。
強者と他称されていて、強者が強者と自認でき、そして自称が広く他者へ承認されている場合
うん、これは強者だろう
強者と他称されていて、強者は自分を強者と言えず、言えたとしてもほぼ他称の自称を言い、そしてその自称は自己または他者によって簡単に否定される
うーん、微妙なところだが、強者のアイデンティティ獲得を失敗しているので弱者に近くなる
話を元に戻すと、強者の定義にはアイデンティティの獲得の失敗を含める必要はないだろう。
おそらく強者の自己否定性はそこまで高くないだろうと思からだ。他称されている点に注目すれば、彼を認める者は少なくともいるということだろうし。
それに他称は変わらないし、弱者であることと、強者であることに何も変わりはないのだ。
私が問題とする2点は回避できる。つまり自称弱者という不可思議な存在と、弱者によるいびつなアイデンティティの獲得の防止。
もう一つ解決しなければならないのは、謙遜による弱者性を自称することだ。これは文化と社会に密接に組み込まれていて、つまり彼らは弱者属性を体よく"使っている"わけだが