これもまたかなり的を外している。
ポリティカル・コレクトネスは単純な市場多数決ではない。
ポリティカル・コレクトネスの描像では、そもそも大衆は、「政治的正しさ」への賛否以前に、正しいか、正しくないかを判定できないのだ。
民主主義においては大衆は主権の行使者であり、社会の運営者だ。
単純な政治行為だけでなく、市場を介しては意思決定を消費選好によって、また言論市場に対しては言明を直接反映できるはずである。
それなのに、女性差別はなぜ蔓延っているのか。女性を含めた人類は生まれつき、女性差別者ばかりだからか。
もしそうだとしたら未来永劫女性差別はなくならないことになる。
そもそも一般に差別が存在するのは、大衆がそれを少なくとも黙認しているからではないか。
そうではなく、そもそも大衆は何が差別かを判定できないのがすべての原因である、と考える。
差別とはなにか、何が「善」で何が「悪」かすら理解できていない。その訓練を受けていないからだ。
教育にも限界がある。そもそも大衆は自発的にそういった訓練を受けない。現状変更の見込みはない。
そこで、メディア、芸術、その他の様々な、大衆が日々目にする言説を直接変更するべきである。
よって変更の仕方を、「善」と「悪」の基準を理解できない大衆にも直感的に判定できるようにする必要がある。
美的感覚、物語上の扱いの良し悪し、その他、すべて非言語的に、複雑な論理構造抜きに理解できる水準が望ましい。