2021-10-28

anond:20211028080916

これもまたかなり的を外している。

ポリティカル・コレクトネスは単純な市場多数決ではない。

ポリティカル・コレクトネスの描像では、そもそも大衆は、「政治的正しさ」への賛否以前に、正しいか、正しくないかを判定できないのだ。

民主主義においては大衆主権行使者であり、社会運営者だ。

単純な政治行為だけでなく、市場を介しては意思決定を消費選好によって、また言論市場に対しては言明を直接反映できるはずである

それなのに、女性差別はなぜ蔓延っているのか。女性を含めた人類は生まれつき、女性差別者ばかりだからか。

もしそうだとしたら未来永劫女性差別はなくならないことになる。

そもそも一般差別存在するのは、大衆がそれを少なくとも黙認しているからではないか

それが積極的賛同ならば、差別の解消は不可能だ。


そうではなく、そもそも大衆は何が差別かを判定できないのがすべての原因である、と考える。

差別とはなにか、何が「善」で何が「悪」かすら理解できていない。その訓練を受けていないからだ。

教育にも限界がある。そもそも大衆自発的にそういった訓練を受けない。現状変更の見込みはない。

そこで、メディア芸術、その他の様々な、大衆が日々目にする言説を直接変更するべきである

とは言え単純な教育では意味がない。従うはずがないからだ。

よって変更の仕方を、「善」と「悪」基準理解できない大衆にも直感的に判定できるようにする必要がある。

美的感覚物語上の扱いの良し悪し、その他、すべて非言語的に、複雑な論理構造抜きに理解できる水準が望ましい。

これを繰り返すことで、多数決原理の結果が「正しく」なるように誘導する。

それこそが、大衆の「政治的正しさ」を善導する、ポリティカル・コレクトネス役割なのだ

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