いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
なるほどつまり外出ししたせいで死んだ奴もいるかもしれないんだな
そういや古事記考古学とかってないの
イスラーム圏ではその手の研究をどうやって進めているんだろう。
高校の時の理科の先生が、般若心経の一節「色即是空 空即是色」てのを持ち出してきて、これはアインシュタインの相対性理論から導き出されるエネルギーと質量の等価性、つまり ...
ははーん、つまりアークは剣山にあるんだな!!
この人の一連のツイートに、今回の聖書考古学的隕石研究の科学的な問題点が書かれている。 https://twitter.com/RawheaD/status/1440509477879386124 補足すると、記事にも出てくる「米トリニティー・...
でも聖書の内容が真実かどうかを疑うことすらできない状況ではみんながうっすら全部嘘だろうとおもってたりもするわけで、弁別できるようになったのは後進的キリスト教のちょっと...