2021-09-09

社会不適合VS多様性社会

都内私大文学部出身です。

いつも、同じ大学に縁のある人間たちが、隣駅の駅前ロータリーを汚していて、

恥ずかしい思いでいっぱいです。

随分前ですが、学生時代文芸をやっていました。

その頃の知人とは、今もSNS交流があります

ただ、ほとんどが就職を拒み、

さらなる学びや、芸術世界への羽ばたきをたのみにしている人達です。

自分は、既に就職して数年経ちます

自分にとって彼らは、勉強はできるが社会に合わせない人、という印象です。

正直、生きている世界の違いに、戸惑います

彼らを見ると、

「俺より歳いってんだから、いい加減就職したらいいだろ…」と

「この人が就職する会社可哀想だな…」の、

両方の感情を抱えます

そうした時、自分は、『何も見なかった』ことにしがちです。

自分の食い扶持くらい自分で面倒見るべき、

という自分の考えが、

多様性」の物差しで見たら古さや因習のくくりに入る考えなのだろう、

と分かりつつも、

でもそれが正しいよな?と

結局自分価値観他人排除したくなってしまう、

自分の醜さに耐えられなくなって思考を辞めます

相手を軽んじながら、相手侮蔑する自分を認めないために

自分思考すら完遂しない、ということが、

自分の誇りを傷つけている気がします。

学びの豊かさが至上という人達の、

学びへの愛情や熱意や、

そうした言葉では表せないほどその人自身癒着した実感を、

否定したくはありません。

彼らのそういうところを、

まあそういう奴だよな、と、

隣人として愛しています

からこそ、その人たちの前では、

「働くことは結局は悪なんですよ楽しいですけどね」というポーズを取るしかなくなります

彼らと労働の話になってしまうと、

働くことはつらいけど楽しいと思っている自分を密かに殺しているような、

俺をこんな目に遭わせているのはこいつらだ、と相手を憎みたくなるような、

底意地の悪い気持ちになります






話は変わりますが、以前、その中の一人と、

食事ついでに何かいものを見ようと、

美術館を訪れたことがあります

彼は、不忍池の周りを意味もなく歩いたり、黙り込んだり、話したり、

弛緩ばかりの時間を共有してくれる、数少ない友人です。

自分の入館料を出そうとすると、彼は

「俺の手帳でタダで入れるからいいよ。

これくらいしか先輩らしく奢れないから」

と言いました。

自分は、固まってしまいました。

それはあなたに奢られた訳では無いだろ

あなた障害を俺が言い訳に使うのは違うだろ

俺は入館料も払えず美しいもの無償享受するような人間ではない

先輩らしさとは奢りのことなのか?

先輩らしさとは後輩に手帳を見せることなのか?

しかしこれらは”日本的な”健常賛美に基づく人格否定だ、

それをこの人に投げかけるのは俺の情が許さな

この人の厚意を無碍にしてまで俺がプライドを通す必要は無い

今日は楽しかった、この人が障害を持つことでこの先遭遇するだろういくつもの苦しみのひとつに、今日を加えたくない

乱れる思考のなか、咄嗟に掴んだ言葉は、

「あ、じゃあ、それで…」。

美術館は印象的でした。

洗練された気持ちになりつつも、

胸の奥に何かが引っかかり続けていました。

その人と美術館に行くことはもうないでしょう。

働かなくても(公的な補助と親の支援で)生きていけるという人たちが、

熱心に自分思考時間を費やし、

学食の安いメニューで一日をしのぎ、

障害手帳を駆使して芸術に親しむ暮らしを、

惨めでみっともないと感じてしま自分気づきました。

自分の醜さを恥ずかしく思います

でも変わりたいと思えません。

彼らの魂の高潔さと、自分の魂の高潔さは別の種類のもので、

彼らを清くするために自分が汚れる必要は無いと思います





長くなりましたが、

そういう汚さを飲み込んで生きていくのが、

多様性社会なんだろうなと、

社会適合」側にしか立てない自分は、

勝ちも負けもせず思います

みなさんはどう思われますか?

  • ワオ手帳貰ってないよ

  • フィジカルエリートが生まれ持った才能で野球で渡米して二刀流で活躍する。 それと同じで、生まれつきの才能だよね。 豊かな家に生まれた出生力で文化資本をえて東大に行くのも才能...

  • せやな 愚痴ればいいと思うよ なんか改行のラインが気になるけど

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