人は他害的な存在を排除するよりもむしろ受け入れる傾向がある。日頃増田達は「他害性」をめぐって極めて攻撃的な弁舌を振るう。例えば性加害。社会的な立場を利用した加害。そういった加害性、つまり他害的な行為についてはてなー達は大いに否定し、社会においてそれらを排除することを望む。少なくともそのような言説を頻りに持ち出している。
とは言え、実際のところ現実において人は他害性を否定するどころか、他害性を大いに受け入れている。
このような言い方はデタラメであり逆説を弄する姿勢だという誹りを受けるだろうが、事実は増田らの言説とは逆である。以下説明を行っていく。
社会において排除されるのは、他害性を持つ存在ではなく、むしろ他害的傾向を持たない存在ばかりである。
他害性はコミュニティから排斥される条件としてではなく、むしろコミュニティにおいて受容される条件として見做されているのである。例えば、会社のポストに就いている幾らかの人間を想像してみて欲しい。全く他害的な性質を持たない人間がいるだろうか? 否である。
あるいは、イジメの構造も好例となり得る。イジメは必ず多数者により少数者に向かって行われ、その逆はあり得ない。つまり、イジメという行為の構造は、「コミュニティに属する人間の多くが他害性を受容している」ことに本質を置いているのである。これは何故なのか?
ごく単純に言って、他害的傾向を持った人間を排除しようとすると、その他害性の被害に遭う可能性があるからである。他害的な性質を持った他者を排除しようとすることで、報復に遭う可能性があるからである。だからこそ人は他害的な存在を受け入れるのだ。
また、ここで逆転的現象が生じることになる。つまり、人は他害的であるからこそ他者を受け入れるようになるのである。
他害的である他者を受け入れなければ、他害性による被害に遭う可能性が生まれる。だからこそ、他害性を持った他者を人は積極的に受け入れるようになるのだ。他害性はむしろこの場合、人間関係における受容の条件にさえ当て嵌まっているのである。一方で他害性を持たない存在はコミュニティから排除される。コミュニティに受け入れられるのは他害性を備えた他者だけだからである。そのため、人間は本能的に、システマティックに他害性を持つ他者のみをコミュニティへと受容し、他害性を持たない他者のみをコミュニティから排除することになる。
多くの人間はこの逆転に気付いていない。それはシステムだからである。システムに思考は必要無く、反省も必要ないからである。
とは言え、他害的な他者を受容することは、無意識化においてストレスを人間に与えることになる。それは当然のことだ。あくまで、人は他害的な他者を、自分がその他害性の標的にならないためだけに受容するからである。では、そのストレスはどのようにして解消されるのか?
つまり、他害的ではない者に対してストレスが向けられるのである。何故ならば、そのようなストレスを他害的で無い者に向けたとしても、そのような他者は他害性を発揮しないからである。つまりは、そのような他者からの報復を受けない(受けにくい)からである。このような他害性の逆転現象は現実において大いに散見される。繰り返すように、学校や会社におけるイジメ行為などが正にそれであり、また、増田においてもそれらの傾向は如実である。ホッテントリには往々にしてこの「他害性のある他者から受けるストレスを解消するために、他害性の少ない他者をターゲットにして言説を展開する」という主旨の記事が上がる。