学者と研究者が明確にどう違うのかはよく分からんが、たとえば外科医なんてものは学問的な論文の評価とは別に外科手術の腕前で評価されることはあるだろう。もちろん、自分のやった難しい手術について論文を書いたりもするのだろうが、やはり難しい手術をしたということ自体が評価されるのではないか。
そして、どうも理系でも手技というものは評価されるようで、今では自動的に実験をする装置も多いが、やはり最先端の分野では機械がすべて自動的にやってくれるというわけにはいかないだろう。そうすると、例えば遺伝子工学にしても難しい遺伝子操作をうまくやれる研究者というものは評価されるはずである。難しいことをやるから、他の人に出せない結果を出せて、それが論文になるという見方もできるが、手技自体も評価されるのではないか。
そうすると社会実装とかいうものについても、どんなやり方であれ、社会を変えるという結果を出す能力は学問とは別に評価されるだろう。そして、その能力が評価されるということは、そのやり方が肯定されるということである。
こういう優れた手技をゴッドハンドというらしい。しかし、どんな実験手法も許されるという訳でもない。動物実験に動物倫理が適用されるならば、人間社会に対する実験には人間の倫理が適用されるべきであろう。という考え方をする社会学者も一部には存在するかも知れない。
すると今問題となっているのは、社会学という分野の社会実装という方法についての方法論であろう。
仮説A:社会学においてはいかなる社会実装の方法も許され、結果的に社会を変えることが出来れば、その手段は問わない。
仮説B:社会学に追いても社会実装の方法には制限がされるべきであり、社会実装の方法が適切でなければ、その社会実装を試みたものだけでなく、社会学自体が滅亡してしまう。
この二つの仮説に基づいて、仮説Aを実証するための社会実験と、仮説Bを実証するための社会実験が同時に進行中なのである。
これは純粋に社会学的な研究であって、感情的な批判を避けて、どちらがの仮説が正しいのか、この実験の結果を見守るべきだろう。
仮説Aが正しいとすると、社会学の分野においては今後もこの社会実装手法が広く採用されることになるだろうし、仮説Bが正しいとすると社会学は消滅するだろう。