2021-01-21

SNS評論家自決

音楽評論家がYOASOBIを批判して炎上している。

ふと評論家一般人(含むオタク)の違いは何なのか、と言う疑問が浮かんだ。

音楽漫画など作品が作れないのは一緒。

作品を聴いたり読んだりしている量も(オタクと比べて)一緒。

専門知識をどこかで学んでいるわけでもないことも一緒。

では評論家一般人、何が違う、または違ったのか。

個人的に3つの違いが過去あったのではないかと推測している。

ただ、その違いはSNSによりほぼ駆逐されたと考えている。

1. 発信する場を持っているかいないか

かつて評論家雑誌などに記事を書き、自分評論を世に出していた。

一方、一般人は一部同人誌という形で評論していた人もいたが基本的自分評論を世に出す手法を持っていなかった。

炎上した宇野も確か元はロキノン記者だったと思う。(名前を見た気がする)

ただ、今やSNSで誰もが発信することができる。

そしてSNSつぶやきの方が雑誌の発信力より大きいのは間違いない。

国民総発信の時代に、評論家一般人の間にこの違いは存在しない。

2. 新しい作品アーティストに関する情報

評論家の元にはかつて様々な情報が集まっていたと思う。

そして、評論家が1.で挙げた発信力を使うことで"見つかった"アーティストはたくさんいた。

ただ、新たな才能を発掘して世に出すという仕事も最早不要だ。

何故なら評論家評価してもらうよりtiktokでバズった方が売れるし多くの人に見つかるからだ。

また、そういうバズりに頼らなくとも、めざとい一般人オタクが才能を見つけ出し、SNSブログ記事を書くことで見つかることもある。

藤井風もはてブで知った)

才能をいち早く見つけるのが評論家必要はなくなった。

というより、評論家は今何千万人といる一般人とどちらが早く才能を見つけられるか競争することを強いられているのだ。

勝ち目は無いだろう。

3. 文章力

これが評論家最後の砦だと思う。

ただこれもどうだろう。今の時代ブログSNSで発信することを鍛えられている一般人もなかなか読ませる文章を書くようになったのではないか個人的には思っている。

更に宇野のようにSNSに引き摺り下ろされた評論家場合たかが百数文字表現する必要がある。

その文字数で文章力の差は出にくいので評論家評論家最後の砦文章力も役に立たない。


評論家SNSなどネット活動の場を移しているが、それは評論家一般人の違いを無くし、自らを一般人に毛の生えた存在貶める行為だと思う。自殺行為だ。

ただ、SNSを使わないと評論家としての自分世間に見つからないことも事実だ。

SNSが普及し影響力を持った今、評論家SNSで発信しないと評論家として生きていけない、ただSNSで発信することが自らの価値を貶めているという二律背反に苦しんでいるのではないだろうか。

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