2020-12-09

anond:20201209212052

砲塔息子の話は、あれは「例え話」であって、「人間のことを言っているわけではない」と思われる。

あの父親神様であって、放蕩息子は人間のことを意味している。

放蕩息子を許さない兄も多分、同じ人間であろう。

から、兄は「なぜ神様あんバカ犯罪者を許すのですか?」と憤っているわけだが、それはそれで正しいと私なら思う。

しかし、ここでバカ犯罪者を許しているのはあくまで神であって、人間が許しているわけではないのである

現に、放蕩息子の話で兄は弟を許していないのだから

人が人を許さないというのは当然として存在する。

その事自体キリスト教的にも否定しているわけではないと私は思っている。

しかし、キリスト教として神が良きことをするのなら、それを模倣しろという考えがまたある。

それが隣人を愛する努力をせよ等に繋がるのだと思うが、それはあくま努力である

人間機械ではない。

頭ごなしに「〜は〜だと考えろ」「〜しろ」のように機械的に判断できるわけではない。

隣人を愛せと言われても愛せない、

自分の妻子を殺した犯人を許せるわけがない、

それは当然であろう。

こういった人間葛藤キリスト教否定している、とネットで主張する輩がいるが単に不勉強なように思われる。

許す努力しろ、とは言ったが、許せとは言っていない、というか、

まあ、上述は多分に自分解釈が混じっているのは否めないので、敢えて「異端」と呼ばれても構わないが、

他人を許せない、というのも人間のまた根源的な感情であって、仮にそれを許さな宗教であるならクソ食らえである

私はキリスト教が、聖書が、放蕩息子の例えが、そういうことを意味していないと思っている。

根源的に人を許せるのも、人を殺せるのも神のみである

「私は神の代行者である」と言って殺人を行う者がいるが、思い上がりも甚だしい。

上司権限勝手に奪って逸脱した行動をする部下のようなものである

記事への反応 -
  • 漫画版だと公立中学で後に少年院に入る少女に同級生がボコボコにされてるコマが1コマあった気がするけど、当然漫画は犯罪者側の視点でしか語られない。 こち亀の両津が言うように、...

    • 聖書にも書かれてるからしょうがない https://ja.wikipedia.org/wiki/放蕩息子のたとえ話

      • 砲塔息子の話は、あれは「例え話」であって、「人間のことを言っているわけではない」と思われる。 あの父親は神様であって、放蕩息子は人間のことを意味している。 放蕩息子を許さ...

    • 公立中で普通に上位の成績取った一般人は、更正した不良と違って進学校→大学のキャリアパスがあるやん。別に誉められなくても成功への道が開かれるわけで。

      • 大学のあとな、文化的に1塁にも立ってないから使い倒されるくだらねーバイトやって、雰囲気でくだらねー研究室かゼミに入って、みんなやってるからって馬鹿正直にリクナビに登録し...

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