2020-11-24

私がスーパーを好きなだけの話

私はスーパーが好きだ。

人生を彩ってくれて豊かにしてくれた。

そんな大好きなスーパーゲテモノを勧めてきたのには困った。

自分が「ゲテモノだって認識してる物わざわざ食べないでしょうし、他人が食べてても美味しそうには思えないでしょう。

だって自分にとってそれはゲテモノもの

お金払ってなんてもちろん食べたくないし、そんなもん奢られたって食べたくない。

どんなにそのゲテモノが美味しい物でもそれを食べない選択をした事は人生の損だとは思わない。誰かがそれを食べてるのを見て、もちろん表立っては言わないけど、

「ふーんゲテモノを自ら進んで食べるんだぁ、私には無理。」

とは思うでしょう。そのゲテモノを食べる神経が理解できないし、したいとも思わない。

私の住んでる文化圏にはそんなゲテモノ食は存在してなかった。

それなのに、ある日突然そんなゲテモノ自分文化圏に入り込んできた。スーパーの後押しを受けて。そこからずっと我が物顔で存在してることがまず無理だから早く無くなります様に。

気にしなきゃ良いじゃんって話になりそうだけど、気にしない様にしてても、そのゲテモノをメインに売ってる店の入り口が、自分が一番良く使うスーパー入り口と隣接してたら無理でしょう。嫌でも目に入るんだよ。そう嫌でも。だから早く存在自体が消えてくれと願っている訳です。

スーパーも昔からある、自分も昔から住んでるからそのスーパーを使ってる。ただゲテモノ屋が後からやってきた。異質だ。スーパー常連客達も訝しんでいる。

でも出資してるのはスーパーと近くのショッピングモールなんだよ。それがまた困りもんだ。ゲテモノ屋なんて私は求めてないのに、私がスーパーで買い物して発生した利益ゲテモノ屋に使われてるのが気に食わない。

スーパー自体修繕した方が良い所沢山あるんだけど、そこに使わず求められていないゲテモノ屋に使う。だからずっとスーパー自体が綺麗にならない。

賑わっているように見えてるそのゲテモノ屋の常連の半数以上はね、そのスーパー顧客じゃなくて共同出資してるショッピングモール顧客なのよ。ゲテモノ屋に行ったからってスーパー顧客流れるなんて事はない。ゲテモノ屋止まり

ショッピングモールは元々の顧客ゲテモノ利益業務拡大してるのに、スーパーゲテモノ屋に出資しても顧客が流れてくるなんて相乗効果がある訳じゃない。

なんだったらゲテモノ屋のお陰で訝しんでいた常連客は「ゲテモノが目に入るならコンビニで良い」ってコンビニに流れてスーパーに来てもらえなくなっちゃうし、いつまでも修繕は進まないし、スーパーさんそろそろ気付いて?本当に力を入れて資金を使って改善しなくちゃいけない部分は何か気付いて。

そして、そろそろ「ちゃんと」して?

まぁ、最初の話に戻るけど私が一番理解できないのは、元々スーパー常連でそのスーパーに並々ならぬ拘りを持っていた顧客が、お前が持ってたスーパーに対するあの強い拘りってなんだったの??ってくらい「ゲテモノ食べてみたい!ゲテモノ食べる!ゲテモノ美味しい!」になってるのが理解できないんだよね。

コンビニに流れた常連達みたいに、私もスーパーに行かない選択肢を取りたい。捨てられるもんならこのスーパースーパーに通う自分を捨てたい。

スーパーに並々ならぬ愛着を持っている顧客である私にはそれができない。したくない。スーパーから離れたくない。

スーパーに通い続けるならゲテモノ屋に目を瞑らなくてはいけない。実際ゲテモノ屋ができてから3年近く、見ないように見えないように、目を瞑っている。

ゲテモノ屋を楽しんでる人を貶さないように、黙っている。「よくそんなもの楽しめるね」って口に出かかっているのを既の所で、我慢している。

でも「目を瞑っている事」「黙っている事」は「許容している事」ではない。ゲテモノだけは本当に許容したくない。許容したくないけど、声を上げる事は出来ない。そんな事しても変わらないから。

から、早くスーパーゲテモノから手を引いて欲しい。ゲテモノ屋が潰れて欲しい。

そう願うしかない。

それが無理なら、いっそのことゲテモノ屋共々スーパーが潰れてしまえばいい。

そうすれば私はスーパーから離れざるを得なくなる。スーパーが潰れたことをゲテモノ屋の所為にできる。

でもそれは私がスーパーを失う事なんだと思うと、その後の自分が怖くて想像できない。

私はスーパーが好きなんだ、失いたくない。

依存は難儀だ。

ゲテモノ屋があろうとスーパーを楽しめる強さが欲しかったし、スーパーに拘りがあってもゲテモノ屋を楽しめる身軽さが欲しかった。

私にはその両方が無い。

スーパーに通い続け、ゲテモノ屋を恨めしく呪う事しか出来ない。

そろそろ、きっと、私の思い入れがある初代商品ゲテモノ屋に卸される。スーパーの内々としてはもう決まっているんだろう。

私の思い入れが切り刻まれて、継ぎ接ぎにされて、見てくれだけは良くなるように塗り固められて、同じ商品ですよという顔をして全く違う商品ゲテモノ屋で売られるんだ。

そしてそれを恨めしく末代まで呪う事しか出来ない。

拘りは依存だし頑固だし保守的だ。

強さか身軽さが、せめてどちらかでもあれば。そうすればこんな陰鬱固執しなかったでしょうに。

でもそれらが無い私には、継ぎ接ぎキメラゲテモノしか見えないんだ。

それを楽しめる切り替えスイッチは無くなってしまった。

いや、元々にもそんなスイッチは無かったんだろう、私には。

なんの話って?

それはね、私とスーパーゲテモノ屋の話。

私がこんなに陰鬱になろうとも、スーパーにも、ゲテモノ屋にも、それを楽しむゲテモノ屋の顧客にも何にも関係ない話。

私にはゲテモノ屋だけど、きっと素敵なカルディみたいなお店なんだよ。

そういえば、遠くない将来には肉や魚などのタンパク質供給が間に合わなくなるから昆虫食を、っていう話があるね。

昆虫、食べられるかな。

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