怒りとはすべて「なんてことしやがるんだコノヤロウ」という感情であろう。そして「なんてことしやがるんだコノヤロウ」というのは「正義感の一種」だろう。酔っ払いの理不尽な怒りであっても、エサを奪われそうな場面での野良ネコの怒りであっても例外ではない。つまり「すべての怒りは正義感に起因する」のである(後記:どう考えても、怒りの誕生の方が正義感の誕生より早いと思えるので、この段落はちょっとおかしいですね)。
ただ、怒り=正義感、ではない。例えば「ゴミをきちんと分別する」「道を訊かれて親切に答える」「路上で性器を露出しない」などは一種の正義感(の発露、というか表現形)とも言えるだろうが、直接的には怒りと関係ない。怒りとは必ずしも関係ない「倫理」「道徳」「社会規範」「常識」「他者への共感」なども、正義感の構成要素である。つまり「正義感は怒りより出でて怒りより若干広い、社会的概念」だということだ。
以上が真だとすると、この世からすべての正義感が消失すれば、煽り運転も、犯罪者や不倫芸能人とかに対する度を過ぎたバッシングも、根絶されるのではないか。そのはずだ。とうぜん、「すべての正義感が消失することのデメリット」というのも、あるだろうとは思うが。
無くさなくても、自分の正義感が絶対ではない、と思うだけでいいんじゃないの? どうして二進法みたいな考え方しかできないんだろう
メモリの使用量が減るから 省メモリは正義
正義感? ふつう、自分の利益になるか不利益になるかでしか考えなくないか? 自分の利益に反すればそれは怒るだろう