コロナ禍でオンライン飲み会が主流となり、地元からも大学時代を過ごした街からも離れてしまっている身としては、今まで会っていなかった人たちと飲む機会がむしろ増えている。
自分で言うのもアレだけれど、いわゆるスクールカースト三軍の集まりである。
クラスの端っこで仲間内だけでワイワイして、学校行事に関わることを敬遠し、彼女持ちの男に嫉妬しているくせに自分は女の子とは喋れない。そんな奴らの集まりだ。
学生時代に培った消極性はアラサーになっても大きくは変わらないらしい。みんな勉強だけはできたので、それなりの大学を出て、それなりの所に勤め、それなりの給料を貰っているはずなのに、一人しか結婚していない。
その一人も、女性側がだいぶ積極的だったからゴールインできた感が強い(そいつの話に依れば、だけれど)。
そこで、全員が同意したのが「この年になっても初めて合う人と未だに何を話せばいいか分からない」という悩みだった。
やっぱりみんな変わってないらしい。
流石に何年か社会人をやっているので、職場の周りの人とは話せるし、取引先とビジネスの話もできる。
それでも、同じ会社でも違う部署の人や新しく会社に入ってきた人、ごくたまに参加する合コンの相手とかと雑談するのは苦手だ。という話で一通り盛り上がった。
その中で一人がこんなことを言った。
「話にオチがないと、話しちゃいけないような気がするんだよな」
確かにそうだと思った。
結局のところ、自分たちのような人間は、自信がないから、せめて話にオチぐらいはないと話してはいけないような気がする。
人間には興味を持ってもらえないだろうから、せめて話すコンテンツぐらいは面白がってほしいと思っている。
でも、喋りのプロでもない自分たちの「オチがある話」は身内ネタが多くなってしまうので、初対面の人と話せることがなくなる。
このことに自分でも初めて気づいた。
要は「だれでも薄く興味があって、オチがなくても何となく続く話題」へのアンテナが自分には足りないのだった。
そしてそれは天気の話だったり、ワイドショーを賑わすニュースの話だったり、政治経済の話だったりするのだろう。
何故多くの人が、天気の話をこんなにするのか理解できなかった。ちょっと暑いか寒いかなんて、何で話す必要があるのだろうと思っていた。
それは、多くの人が円滑なコミュニケーションをするために話していたのかと今更気づいて恥ずかしかった。本当に天気の話がしたい人なのかと思っていた。
今まで、自分は天気の話題なにすらうまく返せてなかったような気がしてきていた。
本当に職場の人と自分と会話できているのかすら少し不安になった。
これからは「だれでも薄く興味があって、オチがなくても何となく続く話題」にもっと目を向けなければいけない。
みんなは「またしょうもない話しかしてないなー」と言っていたが、自分としては得たものがあった。
ZOOMを切り、水を飲んでいるときに、ふと、さっきの自分の気付きはみんなに話したほうか良かったんだろうか、と思った。
何だか恥ずかしくて言えなかったけど、同じ気持ちになった奴がいたかもしれないのに。
きっと、こういうところも直さないといけないのだろう。
「だれでも薄く興味があって、オチがなくても何となく続く話題」って、数こなさないと得られない能力じゃん。他人は他人のことをほとんど気にしてないっていうのを体感するところ...