2020-09-16

オタク推しの夢を見るか

これは個人的経験の話である

あるアイドルグループを好きになった。そのアイドルグループ所属する一人の子を好きになった。

いわゆる推しというやつである

の子パフォーマンスも好きだったし、声も好きだったし、なによりまばゆいまでに光り輝くそ存在のものを好きになった。

その姿を見ればどうしようもなく心が高鳴り、衝動に任せて様々なグッズを買い、機会はどうしても減ってしまったがイベントにも足繁く通った。


そのうち夢を見るようになった。

そのアイドルグループの子たちとの夢である

出てくる子は毎回違う。しかしどれもとても楽しい夢だった。

ある日気づいた。

グループの様々な子と一緒に過ごす夢を見ているが、これまで一度も推しとの夢を見ていないことに。

なぜだろうと考えた。実はそこまでその推しが好きではなかったのだろうか。

様々なグッズを集め、その推しに囲まれるような生活をしているが、その実自分はそれとは別のベクトルを向いていたのか。

しばらくして一つのことに思い当たった。

私が見ていた夢に出てきた子達は、推しと仲がいい(いわゆるカップリングを売りにしている)子達ばかりだった。

夢の内容はおぼろげで、どんな夢であったかは思い出せない。ただ一つ推測出来ることがあった。

まり、私は夢の中で推しと同一化して、推し視点での夢を楽しんでいたのではないか

私の推しとは、好きという気持ちとは、自分を輝かしいなにかと同一化したいという衝動だったのではないか

同一化、好きになった対象を己と同一視するという心理はさほど珍しいものではないようだ。

憧れ、という言葉に置き換えれば、いろいろと頷ける部分もあるだろう。

アイドルファン間の心理について対象との同一化に言及する先行研究も多々あるので、そのことについての一般的解釈についてはあえてここでは行わない。

さて、つまり私にとっての推しはいわば物語主人公のような、ADVゲームの顔のない主人公のような、自らをアイドル達の世界投射するツールではないかと考えたとき

私は私自身に深く失望し、絶望した。

私はあれだけ心を揺さぶれた存在、にもかかわらず、それは他者としての推しを好きになったのではなく、単にその向こうにある自分、華々しい活躍勝手に我が物とした自分を愛でていたにすぎないのかということに。

私は他者に対して本当の意味好意を抱くことは出来ないのか。

私はあれだけ好きになった存在と、夢の中ですら他者として向き会うことが出来ないのか。

私の好きとは一体何なのだろうか。

それは己への軽蔑であり、悲嘆であり、絶望であった。

推しと夢で出会うには、その推しが自らではないと真に自分自身が認識しなくてはならない。

私はあの子の歌が好きだ。

私はあの子の声が好きだ。

私はあの子の姿が好きだ。

私は光り輝くあの子が好きなのだ

口で言うのは易であるが、どんな言葉で取り繕うとも、自らの深層心理という理性だけではどうにもならない領域ではまやかしにすぎない。

自らの奥底にある自分自身が、真に推しとの同一視をやめない限り、私は推しと夢で出会うことが出来ない。

私は自分の好きと言う衝動に対して、その意味を真っ向から問い続けることしか出来ない、

どうしようもなく焦がれる思いに、常に自分自身で冷や水を浴びせ続けなくてはならない。

いずれ、この思いは冷めるのだろうか。

この思いが冷めれば、推しとの夢を見ることが出来るのだろうか。

それは私があの日夢見た推しとの邂逅であろうか。

ただ今は推しとの邂逅の幻を夢見て、眠りにつく。

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