「宇崎ちゃんの献血ポスターは環境型セクハラ」であるならば「Ananの表紙も環境型セクハラ」であるのに、前者だけを批判するのはおかしい。
「AならばB」、って主張してるんだけど、これだけだとなぜ「前者だけを批判するのがおかしい」のか明瞭でない。
批判されたフェミニスト側からしてみれば主張しているのは「Aである」なので、
「AならばB」かつ「Aである」、これによりただちに「Bである」となる。だから増田の主張は正しい。
「宇崎ちゃんの献血ポスターは環境型セクハラ」であり、「Ananの表紙も環境型セクハラ」であるのに、前者だけを批判するのはおかしい。
「Aであり、Bである」この書き方ならばふたつが並置になるので、不平等性がより浮き彫りになる。
増田の言いたいことは「AならばB」ではAが真か偽かについて何も言っていないために、「Aである」可能性を認めてしまっているから、「Aでない」をストロングに主張しろ、ってことだろう。オレはこの主張は説得力あると思うし、賛同するわ。
『「宇崎ちゃんの献血ポスターは環境型セクハラ」であり、「Ananの表紙も環境型セクハラ」であるのに、前者だけを批判するのはおかしい。』 セクハラだと認めてしまっていますね...
読解力おかしくないね。 おかしいのも、歪んでいるのも、あなただ。 「宇崎ちゃんの献血ポスターは環境型セクハラ」であるならば「Ananの表紙も環境型セクハラ」であるのに、前者...
色々端折ってすみません。 『「宇崎ちゃんの献血ポスターは環境型セクハラ」であるならば「Ananの表紙も環境型セクハラ」である』は自明ではありません。 何故なら「宇崎ちゃんの献...
いつも思うんだけど、ブーメランになって自分に返ってきてしまわないか、暴言を書き込む前にほんの10秒考えるだけでも違ってくるのに。