2020-03-09

父が死んで最初の月曜だ

これは嘘松から安心してほしい。

5年の介護の末、父が死んだ。今日は忌引きで休みだ。先週末にかけて通夜葬儀とおわり、遺産整理やら名義変更やら自治体通知やら法的対応は山ほど残っているが、こうして増田をかける。

痴呆症だった。最後は日に数分起きる暮らしに落ち着いた。最後最後は目を覚まさず、ただ、呼吸をやめた。自宅での見取りとなった。それが父の希望にかなったのかは、介護の間からわかりえなかった。ひとりの老人を死ぬまで生かすために、大勢大人と多額の資金と、終わりがみえなくてもおれない心と、無限のような時間必要だった。人と金以外は自分で用意するしかなかったのがもっともつらかった。

そして、父は死を恐れたのだろうか。痴呆症の彼は死を知覚、認識できたのだろうか。明日死ぬ、午後に死ぬ、五分後に死ぬ、もう死ぬと迫ってくるのを理解したのだろうか。

僕も最後痴呆症になりたいと願った。死ぬのを理解しなくていいのなら、もっとも気軽に死ねるのではないだろうか。介護をしながら、父のその最後にあこがれた。もう、彼の時間は止まってしまい、主観的には死んでいたのかもしれない。あれは何が生きていたのかもうよくわからない。ただ生かさなければならない、その社会要求に、僕が答え続けただけだった。偉そうに。

ただ、本当に、心底、とにかく、痴呆症死ぬのは、人類が得た進化のかたちなのだと痛感した。

死を意識して生きるのは人間にはできない。

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