世の中、正しい人のほうが多数派だ。
だから自分が正しく生きようとするなら、多数派の意見を受け入れて従うのがいい。それが一番確実かつシンプルな生き方となる。
これは生き方や道徳観だけではなく、世の中すべて、「えっ?そんなことも?」と思われそうなことにも通用する。
簡単な例を挙げると、
多くの人が誤っていることなんて、ごくわずかで、しかも軽微。せいぜい日本語の誤用程度で、わずかだからこそ話題になる。
今回の低能先生の件には複数の意見があってモヤモヤするが、上記を踏まえるとスッキリハラ落ちできるはずだ。やってみたい。
暴力がいけないのは、誰もそれが正しいとは思わないから。そのみんなの常識が明文化されたのが法律で、その法律に従って社会は機能している。法律は正しい人間を育成するための教科書にもなる。
個人攻撃や罵倒が罪にならないのは、みんなやっていることだから。正しいことは罪になりようがない。名誉毀損や侮辱が罪にならないのは、誰も訴えないことだから。誤っていることは誰もやらない。
低能先生がしたことは罵倒と暴力だ。前者はみんなやっている、だから何年でも続けることができた。後者は誰もやらない、だから誤りで、罪になり、許されない。
低能先生に対峙したユーザーがしたことは、サービス運営者への通報だ。これはみんなやったことで、正しい。多ければ多いほど正しいと言える。
警察への通報は誰もやっていない。だから罵倒のみで警察沙汰にするのは誤りだった。実際、公判でも罵倒は問題になっていない。被害者遺族でさえ「言論の自由」を挙げており、処刑対象はあくまで暴力(と、それに付随する銃刀法違反と建造物侵入)だ。
以上は「詭弁」だろうか。