2019-11-18

低能先生を論じるための教養①「正当性多数決

世の中、正しい人のほうが多数派だ。

翻って、マイノリティは誤っている場合が多い。

から自分が正しく生きようとするなら、多数派意見を受け入れて従うのがいい。それが一番確実かつシンプル生き方となる。

これは生き方道徳観だけではなく、世の中すべて、「えっ?そんなことも?」と思われそうなことにも通用する。

簡単な例を挙げると、

  • 1+1=2なのは、みんながそう考えるから正しい。
  • 2×3と3×2が同じなのも、みんながそう考えるから正しい。(学校教育では異なると言われても、大多数はそう思わないので誤り)

多くの人が誤っていることなんて、ごくわずかで、しかも軽微。せいぜい日本語の誤用程度で、わずかだからこそ話題になる。


今回の低能先生の件には複数意見があってモヤモヤするが、上記を踏まえるとスッキリハラ落ちできるはずだ。やってみたい。

暴力がいけないのは、誰もそれが正しいとは思わないから。そのみんなの常識が明文化されたのが法律で、その法律に従って社会機能している。法律は正しい人間を育成するための教科書にもなる。

個人攻撃罵倒が罪にならないのは、みんなやっていることだから。正しいことは罪になりようがない。名誉毀損侮辱が罪にならないのは、誰も訴えないことだから。誤っていることは誰もやらない。

低能先生したこと罵倒暴力だ。前者はみんなやっている、だから何年でも続けることができた。後者は誰もやらない、だから誤りで、罪になり、許されない。

低能先生対峙したユーザーしたことは、サービス運営者への通報だ。これはみんなやったことで、正しい。多ければ多いほど正しいと言える。

警察への通報は誰もやっていない。だから罵倒のみで警察沙汰にするのは誤りだった。実際、公判でも罵倒問題になっていない。被害者遺族でさえ「言論の自由」を挙げており、処刑対象あくま暴力(と、それに付随する銃刀法違反建造物侵入)だ。

以上は「詭弁」だろうか。

しかし「多数派は正しい」という一点で実際に説明ができたことを見落とさないでほしい。

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