2019-11-17

保内さんのnote読んで思ったやつ(フェミニズム関係ないやつ)

他者キャラ化したい人たちと自己キャラ化されたくない人たちの対立

言い得て妙表現

この表現には2つの大事ポイントが含まれている。

1.「他者キャラ化する」ということは、自分の知のあり方の一面を披露することである

2.誰しも自分単純化されたくないということ

1について。

他者キャラ化する」ということは「こいつはこういう性質存在である」という定義付けをして単純化する、ということであるから、その定義付けに際しては定義者が対象をどのように捉えているかが問われる。対象をどのように捉えるかは、すなわちその人間の知覚のあり方を示していて、認知が偏った人間はおおよそ常人思考とはかけ離れた枠組みで物事を捉えようとし、何を見ても一面的な捉え方しかできない視野の狭い状態になったりする。一方でこの定義けが上手い人間は、「キャラ化する」ことを通じて新たな視点提示したり、今まで人々が上手く言語化できなかった部分を補完して共感を呼ぶことができたりする。つまり物事他人共感させるような定義付けには、幅広い知識や的確な言語センス重要になってくるわけで、それは普段その人間世界をどう認識しているかという問いに対する答え(の一面)にほかならない。「キャラ化」とは戦略的に行った場合大喜利のような知的総合力の結集体ともいえる。

2について。

上記のように、「キャラ化」とはその人の知的成果であり、使いようによっては人々に影響を及ぼすことができるわけだが、そのためには表現が洗練されている必要がある。冗長ポイントを外した表現共感を呼ばないし、あくまで簡潔である必要がある。しか人間という存在は誰しも複雑であり、一面的に捉えられるような存在ではない。一見同じような存在に見えても、人によって趣味嗜好や成育環境は異なっており、それぞれの微妙な違いが結果として多様性・複雑性を生んでいる。そういった背景を無視して「あいつはこうだ」と決めつけることは一般的には無礼行為であり、まして人間関係を持たない赤の他人にされるのは誰しも不快に感じるだろう。「キャラ化」とはそういった攻撃性を孕んだ上で成り立っているのである

討論において、論敵をキャラ化するということは聴衆の共感を得るのに効果であるというメリットの他に、上に述べたように相手を軽んじているという態度を表出するという攻撃的な効果もある。これがメリットであるデメリットであるかは、議論をどういう目的でどこに着地させるかによって大きく異なるわけだが、この手法を選好して用いるということは基本的は論敵を侮辱してやるという「メリット」をとったということだろう。こういった敵対的な態度で行う議論生産性はなく、何か成果らしきものがあるとすれば、「あ、なんとなく分かってはいたけどこいつとはやっぱ相容れないんだわ」とか「こういうやり方で討論やってても現実問題解決は遠のくだけなんだな」とい諦め半分の気づきくらいなんではなかろうか。

端的に言うと「こうなんのみんな分かってたよね?分かっててなんでやったん?なんで?ヒマなん?」って感じなんだが、わざわざこういう徒労に時間を費やしてくれている人がいるおかげで世界更新されているんだと思うので尊重するようにはします。行動力ある人えらい。

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