しばしば、表現の自由が脅迫に屈した、とか表現の自由に対する挑戦みたいなことが言われるんだけど、よく考えてみると、ん?まてよと思うところがある。
つまり、屈するってどういうことだろうと。
じゃあ、屈しないとした場合、具体的には現場でどういう判断になるわけ?
ガソリン持ってくるのに怯えながら耐えるわけ?主催者が?客も?
それは判断としてないわけで、ありうる判断は、現場のリスク管理の基準に基づくものだけだよね、実際上は。
主催者側の根性や気合いで屈しないように頑張ろうって話にはならず、ある意味では差し迫った危害を前にしては屈せざるを得ないわけだよね。
という時点で表現する側にできることは危険を回避する判断以外にあり得ないわけで。それなのに屈したと、当初から選択肢にあった判断をあきらめたかのように装って、わざわざいうのは変で、当然の危険回避行動をとったと言えばいいんじゃなかろうか。
じゃあ、今度は逆に、脅迫は卑怯なり!って方向から考えてみる。
確かに実態として、脅迫行為によって表現活動は萎縮する。自由を萎縮させないために脅迫行為を厳しく追及すべきだと。
なるほど表現の自由を守るためにそういった犯罪行為は少なくなっていったほうがいい。
ただちょっと疑問なのは、脅迫によってビビって萎縮するって表現の自由に限った話じゃなく、業務妨害でもいえることで、他者危害のひとつの類型だよね?
しかも加害者の認識としては、別に表現の自由に対する挑戦などという壮大な動機はなくて、具体的な何かを
妨害したいってだけだろうと思う。
であれば、勝手に加害者の動機を壮大にとらえるのはおかしいんじゃないか。
こういう事態に対して表現する側ができることは何かって視点で考えてみる。
犯罪を非難したり、不当な拘束をやめるよう要求したり、個別の危機管理をするしかない。いつ何時、似たようなことが起こらないとも限らないし、そのための対策なんてないよね?つまり、表現の自由の価値を守るための行動って具体的になんなの?
極端な話、今後、ガソリン持ってくるぞ予告電話が流行るかもしれない。
そのときにできることはなんなの?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そんなふうに考えてみると
表現の自由に対する挑戦には屈しないとか、よく聞くフレーズには具体的なアクションとしての実体がないんじゃないかと思える。できもしないことを叫んでるだけなんじゃないかと。
まあ仰る通りだと思う なんといっても声高に叫んでる奴は現場におらんからな
元増田にグダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。 「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞 デモに来た...
中止の決定の是非と河村たかしや菅官房長官の発言の是非は別だろ 混同してるのはどっちだ
この増田の意見自体はたしかに現実論としては正しいのだけれども、 その「反転可能性」としてそれがオタクイベントとかに向けられたらどうするの?って点も問題にされてるんだけど...
それは違うだろ… 女なのに