2019-04-11

バス通勤の思い出

思い出したので、なんとなく書き留めておく。

その日もいつも通りのバスだった。

季節は恐らく春か夏。

退勤処理をして外へ出るとまだ空は明るくて、なんだか得した気持ちになった。

そんな平和夕方の思い出。

その路線バス車両の前側から乗って真ん中あたりから降りるタイプ

乗り込むとき運転席の横で電子マネーをピッとやる。都会のバスは優しいのでどこで降りても定額料金だ。

番号のスタンプされた乗車券を握りしめ着々と値上がっていく電子料金表をビクビクしながら見つめ続けなくてもいいんだ。とてもやさしい。バス停に屋根もあるし。

そんなわけでいつものバスだ。

停車しきる前から開いてるんじゃないかという勢いのドアから乗り込み、ピッとやって、運転手へゆるく挨拶して、歩きながら車内を見渡す。できれば座りたかった。

手前の一人がけの席は埋まっている。じゃあ奥の二人がけの席はどうかな。

奥に視線をやると、それは二人がけ座席にデンと座ってた。

人間2人分強はありそうな巨漢だった。

別に両国は近くないからアレは十中八九ただの巨漢だ。ただの巨漢が奥から数えて2つ目の座席に窮屈そうに肉を収めていた。

巨漢と窓の間にサラリーマンが挟まっていたのでよく覚えてる。

二人がけ座席は手前に1つ空いているのにわざわざサラリーマン圧縮している巨漢は見るからにやばそうだった。

他の乗客もなんともいえない微妙雰囲気だ。

ぶよぶよしている。関わりたくない。

心のなかでリーマンへ合掌して手前の空いている席を目指した。

新たに乗り込んだ客は自分ひとりだったため、申し訳ないぐらいゆったり座れた。

自分が強い人間だったらあのリーマンを助けてあげられるのになと、のんきに車窓を眺める。

気になっているちいさな惣菜屋今日も後ろへ流れていった。

次の停留所で巨漢が動いた。

バスが停まり、老婆がひとり降りていった。遅れて巨漢が立ち上がり、降車口近くに座っていた自分の横までやって来る。

「ああ降りるのか」と思った。

リーマン開放されてよかったな~とにっこりしたのもつかの間、なぜか巨漢の尻がこちらにめり込んでくる。

何を言っているのかわからねーと思うが気付いたら巨漢と窓の間に挟まっていた。

暑くはなかった。むしろひんやりに包まれた。

右のひんやりは窓ガラスだ。その向こうの景色ゆっくり動き出している。

反対側は巨漢だ。自分の装備はスーツで長袖長ズボン。なのに向こうのTシャツからはみ出た肉のしっとりひんやりしている感じが、なぜか伝わってきていた。

なんで降りない?なんで座った?なんでとなり?

混乱のさなか、さきほどのリーマンのように圧縮されている自分を遠くから見たような気がした。

いま思い返すと幽体離脱だったかもしれない。

それどころではないので次の停留所までこの状況に耐えられるのか考えてみた。

この時間バスがたくさん走っているから、降りてもあとから来るやつに乗り換えればいい。

町並みから察するに次の停留所トンネルの向こうだ。ちょっと遠い。

ムリ。

まあムリ。

肉を押しのけた。とにかく立ち上がった。

立ち上がったが、肉壁が行く手を塞いでおり通路へ出られない。

天罰だとしても身に覚えがなさすぎる。

今すぐここから開放されたい。

しかし巨漢に悪意はない可能性をこの数秒では捨てきれなかった。だって悪意あったらこわい。

万が一にもピュアかもしれない生き物相手にいきなりミッションインポッシブルスタント脱出を試みられるほど、自分は鍛えられていなかった。

では元に戻れるかというと、先ほどまで尻を収めていた座面はもう肉で見えなくなっていた。

肉の主は、無言で進行方向を見つめている。

戻れないなら攻めるしかない。

何を得て何を犠牲にするかの判断明暗を分ける。形成は圧倒的にこちらが不利だ。

ゴクリとつばを飲み、自分は彼にやさしく声をかけた。

君は窓側に座って。自分通路側に座るよ、と。

彼にとっても魅力的な提案のはずだ。

なんといっても窓際はいい。散歩しているわんこも見られる。窓ガラスだってひんやりしている。

方や自分はといえば通路側という呼吸するスペースを手に入れられる。

お互いメリットだらけ、Win−Winだ。

なのに肉のやろう渋りやがった。

ヤツの表情はイマイチ読めなかったが動く気はないらしいのは理解できた。

しかこちらも引くわけにはいかなかった。

もう絶対にここから逃げ出す。自由を手にすると心に決めていた。

「次の停留所で降りるんです」

ダメ押しにと震える手で降車口を示した。

バスではよくあることだ。

座ってようやく落ち着いた頃、窓側に座っている人間が停車ブザーを鳴らし、次で降りると主張する。

それを叶えるためには通路側の自分が立たなければならない。

また立つのは正直めんどくさい。どんな善良な人間だってそう思う。

立たせる側だってそりゃもう申し訳ない気持ちになる。

そう、自分申し訳ないんだ。

君が嫌いなんじゃあない。

君に面倒をかけるのが申し訳ないんだ。

から席を交代しよう。

一度こちらの提案棄却している彼だ。重ねての親切を無下にはしにくいだろう。

更にこれは日常的に乗客間で行われているごくありふれたやりとり。

それを受け入れないのは不自然。このシーンでの不自然は悪意を浮き彫りにする。

(ちなみに相手も同じ目的地だと詰みます

これで動かなかったらいよいよトム・クルーズになるしかない。とルートを探り始めた頃。

目の前を塞いでいた肉はのそりと動き出し、ようやくその向こう側に通路が見えた。

やった!生きられる!

いつでも動けるようカバンを抱え直すと、空の弁当箱がカチャリと小さな音をたてた。

焦るな。今じゃない。

ギリギリ空間へ体を滑り込ませた途端プレスされて圧死なんてシャレにならない。

必要なスペースを見極めろ。その瞬間を見逃すなーーー

自分通路へ出ると、彼はまたのそりと座席へ戻っていった。

巨漢が巨漢なりに窓際へ収まったのを確認してからこちらもようやく座席へ腰をかける。

勝った。勝ったのだ。

隣りを見れば圧縮リーマンに多少厚みが戻ってきていた。それでも前髪は乱れてげっそりして見える。

おつかれリーマン。ほんとうにおつかれ。

なんか巨漢がこっちをチラチラ振り返ってくるがそんなことは関係なかった。

そうして自分も一息ついて、膝に置いたカバンを抱きしめた。

また弁当箱がカチャリと鳴った。

そのうちバスは次のバス停へ止まったが、誰も乗らなかったし誰も降りなかった。

自分はそのまま終点までバスに乗り、ほかの乗客と一緒にバスを降りた。

巨漢は席を立つタイミングを逃したようで座席の横を通り過ぎる人々を見送りながらもぞもぞしていた。

それきり二度と会わなかった。

今は遠きバス通勤の思い出。

  • なんということでしょう、アルマイトの丈夫な弁当箱が厚み1センチに!   というオチではないのか

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