愚痴。
なんか客観的じゃないから法律学は学問じゃないとか言われて納得できねーーーーーー
そりゃ厳密に現実世界とか実態の記述を行うことを目的とするなら(目的の一部とするなら)、客体と主体は分離されざるを得ないだろうし、数学みてーな解釈の余地がない言語でそれを記述するのが一番だー!って話になるだろうな。そういう目的においては、あるいはそういう前提においては、たしかに客観性は大事だろう。というよりも、そういう客観性が保たれる手法を取らなきゃ、そういう出来るだけ実態に近い実態を把握しようなんて試み自体が成立しない。だからこそ、そういう分野においては客観的なエビデンスは大事だ。めちゃ分かる。理解できる。
でも、別にそれだけが学問の目的じゃあないし、そうではない目標を掲げた分野が存在したっていいだろ?例えば俺の思う限りでは法律は国家の道具だし、その道具でどうやって社会を良くするか考えるのが法律学だろう。仮に法律学の目的がそうであるとしたら、必ずしも極めて厳密で客観的な手法が要求されるとは限らないだろ?だってそもそも目的がちげーんだから。客観性が大事なのも結局なんらかの目的が客観性を要請してるだけなんだから。学問は客観的でなければならないなんて定義してしまった時点で数学的な言語で記述できない分野は学問足り得なくなってしまう。でも学問がそうであるべきと決め打つ必然性なんてどこにもねー。ただある目的においてそういう手法が極めて有効だってだけ。百歩譲って法律が仮に学問たり得ないとしても、まさかそれで法律がいらないなんて言うわけじゃないよな???
結局、客観的じゃなければならない、っていう宗教を信じるなら、そりゃ客観的じゃないものは全部だめなものに映るんだろう。そしてそういう宗教の信者になるのは、ある目的においてはすごく大事なことだ。とてもとても大事すぎてそれが本質だと言ってもいいぐらい、大事なことだ。でも、そういう手法がとれない分野とか、そういう手法と親和的じゃない目的もあって、そういうものが必要ないとか学問足り得ないとか言われるとムカつく。その宗教の教義があらゆるときに妥当するって本気で思ってのんかよばーーーーか
でもそういう思い込みこそが彼の原動力の一つかもしれなくて、そういうものの恩恵に絶対に自分もあやかってるから、でもけどでもうーん