2018-12-19

価値観ってなんだろう

価値観定義は「何に価値があると認めるかに関する考え方」らしいのだけど、価値観という判断基準ほどわかりにくいものはないかもしれないということを思う。

相手自分の望み通りに動いてくれたら「価値観が合う」といい、相手自分の望み通りに動いてくれなかったら「価値観が合わない」ということになるのだろうか。 もし価値観がそのようなものであると断定した場合価値観というものは「利害の一致」と言い換えることもできる。

だが、それだと少し違うような気もする。 利害が一致せずとも、好きなものが一緒であるとか、同じ感覚を抱いたというときには「価値観が合う」という場合もあるからだ。

たとえば演劇映画などを鑑賞したときに、この演出やシーンがよかったとお互いに合意が取れた場合、「価値観が合うね」と言い合うことがある。 ただ、同じものを見たときに違う印象を持った場合には、それについて「価値観が合わない」とはなかなか言わず「そのような捉え方もあるのだ」とむしろ合点する場合さえある。

まり当人だけでは気づいていない捉え方を指摘されたとき価値観が合わない」とは言わず「新しい着眼点だ」として、その内容を受容するような状況がしばしば発生するのである

もっとマクロに捉えてみて、もし2人が同じ状況を指向している状態であれば、価値観が合うとみなすことが可能なのだろうかということについても考えてみる。 例として、海が好きな人と山が好きな人存在仮定する。はたして、この人たちは価値観が合うのだろうか。

もし自然という切り口からこの関係アプローチをする場合、この2人は「自然が好き」という共通項でくくることができる。 だが、それだからといって、直ちに価値観が合う」と断定することはできないだろう。

自然が好きという共通項が存在していたとしても、山と海という二項対立関係で両者の関係分析した場合、この2人はお互いに対立したものが好きなのだと見なすこともできるからだ。 そのため、同様の関係ながらも「価値観が合わない」と判断を下すことも可能であるからだ。

こうした問いを繰り返していくと、価値観というものは、その時の自分気持ちに大きく依存するものなのかもしれないとさえ思えてくる。

自分の想定する通りに相手が動いてくれなかったらといって「価値観が合わない」と安易判断を下せるわけでもないし、自分想像できない状態相手が保持していることを「価値観が合わない」というわけでもなければ、共通項がないからと言って必ずしも「価値観が合わない」ということができるわけでもない。

となると、私が日常的にふと思う「価値観が合った」と思える瞬間は一体何なのだろうという疑問もまた湧いてきて、最初の問いに改めて戻るのである

  • まず「価値観」が何故「価値感」とならないのかについて考えた方がいい。 価値観というのは感覚ではなく観点という事。英語で言うと“feel”ではなく“view”という事。 価値観=観点...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん