その日僕は、様子見のために会社が新しく立ち上げたバルに立ち寄った。
いつものようにSが近寄ってくる。
1名はすでに履歴書で確認していたのでなんとなく人物像を描けていたのだが、もうひとりを見て口から心臓が飛び出そうになった。
Kと名乗るその女性は、僕がまだこの会社でペーペーだった頃に猛烈な恋心をいだいたZに生き写しのようだったのだ。
少し鼻にかかる声、長い手足を更に大げさに振り回すようなリアクション、育ちの良さから来るであろう無自覚に人を見下ろすような言葉選び、そして時折、吸い込まれそうなほど大きな瞳で時が止まったかのようにこちらをじっと見つめてくる癖までも、何もかもが同じだった。
しかし、いくら生き写しのようだとしても初対面の見ず知らずの女性だ。
準備運動もなしに階段を一気に駆け上がったかのような鼓動をさとられないように冷静に挨拶を交わす。
ただ、そうやって話せば話すほど、彼女は隅々までもZと同じだということがわかった。
あれから15年が経とうというのに、まさかこんなに胸が苦しい思いをすることになるとは思いもよらなかった。
そんな時唐突に、Sからそろそろねぎらいの食事に連れて行って欲しいと提案を受ける。
この男は全く無神経なところがあるが、今日に限ってはその無神経さが染みるほどにありがたく感じた。
「それならば今日の閉店後はどうか。たまたま予定が空いている。」
そういうとSは早速その場にいる人間に予定の確認を行い、かくして閉店後、すぐ近くにある居酒屋でテーブルを囲うことになった。
はすむかいの、Kとの視線が直接交わらない位置に座ると、僕は周囲にさとられないように改めて彼女を観察した。
Zの娘なのではないかと疑わなかったわけでもないが、聞けば23歳だというKの年齢を考えるとそれはあり得なかった。
僕を含め、まだあってから日も浅いであろうバルの従業員たちに対しても、Kは喜怒哀楽を隠すことなく誰にでも等身大でストレートに交わっていた。
世間に出たての、恐れることも疑うことも知らなかったZと同じ、見ている人間をどこか心配にさせるほどの天真爛漫さに、もう若くないはずの自分の胸の奥にある甘酸っぱい感情が刺激されるのがわかった。
こちらが感傷に浸っていると、Sがこそこそと耳打ちをしてきた。
聞けばキャバクラに行きたいのだが一緒にどうかということらしい。
ある種悶々とした気持ちを引きずったまま妻子の待つ家に帰るのも気が引けると小声で承諾すると、Sは唐突に皆に向かって叫んだ。
「お前ら!次はキャバクラ行くぞ!」
よせばよかったという後悔と、別に自分がそういうところに出入りすることをKに知られたから何になるのかという自問自答に挟まれながらふと顔をあげると、なぜかKは目を輝かせながらSを見て「わたしも行きたい!」と言い放った。
Sは当然のようにそれを受け入れると、Kに加えてもうひとりの新人と、店長であるDを含めた5人でキャバクラに行くことが決まった。
すでに終電も終わっている。ここかはらタクシーに乗らなくてはキャバクラに行くことは出来ない。
Sと新人女性2名、自分と店長に分かれて2台で2つ隣の駅までタクシーを走らせる。
タクシーから出ると、Sはなれた様子で客引きに声をかけて早々と値段交渉を始める。
それを待っている間の悪さをさとられないように、残りのメンバーとは当たり障りのない仕事の話を交わす。
いよいよ交渉が成立し、客引きに連れられて店へと入ろうとすると、Sがニヤニヤとしながらこちらに近づいてきた。
「値切って安くさせたのでよろしくおねがいしますね!彼女らも喜んでましたよ!」
こやつ、女性の手前断れないだろうと支払いをこちらに押し付けようとしてきたらしい。
酔いも手伝ってか、この一言で完全に頭に血が上った。
「ふざけるな!どうしてお前はいつもそうなんだ!自分の根性を見直してこい!」
自分もいつもなら社長が一緒でなければこういった場所にはいかない。
お金が勿体無いという以上にそれほど興味がないし、社長と一緒にいく理由も、社長は男同士が腹を割って話すのに必要な儀式だと譲らないからだ。
居酒屋で耳打ちしてきたときから、Sは全てを計算の上だったのだろう。
しかし、Sは怒鳴られて悪びれるどころか横目でこちらを一瞥して舌打ちをしただけでその場を去っていってしまった。
怒りにまかせて身を翻し駅前のタクシー乗り場へと向かうが様々に渦巻く感情を引きずったまま家に帰る気にはなれずに、しかたなく気持ちが収まるまで立ち飲み屋で過ごすことにした。
Kに対して下心がなかったわけでもなく、見栄を張りたい気持ちがなかったわけでもない。
それをSに見透かされたような気がして、そんな自分に一番に腹が立ったのだ。
このままではどちらにしても家族に合わせる顔はない。
唐突に孤独感に襲われると、そこから逃れるように8年前に別れたHを携帯電話のアドレス帳から探し出して呼び出しをタップした。
Hである理由はなかったのだが、Hなら電話に出てくれそうな気がしたのだ。
しばらくの呼び出しの後、「どうしたの?」と訝しげな様子のHの声が聞こえてきた。
「すまない。特別に理由があるわけではないのだけど、ただ、少し声が聞きたくなって。」
「今から来る?」
色々とこうでなくてはいけないと押し付けてくる彼女が面倒くさくなったのだ。
何となく彼女もそれに気づいていたのだろう、数回の着信を最後に、一切の連絡はなくなった。
その後半年もせずに僕は、親同士の知り合いによる紹介でお見合い結婚をした。
仲人の方が二人をよく見てくれていたのか、お見合いから早々に意気投合し、半年で挙式、そこからちょうど11ヶ月で長男が生まれた。
結婚生活には満足している。
それまで見ず知らずだった僕に、妻は本当に良くしてくれている。
ただ、2人目の娘が生まれて4年。その妊娠以降、セックスはない。
「30分あれば着きます。」
それだけいって電話を切った。
Hは8年前と同じ様子で僕を迎え入れてくれた。
相変わらず僕の服装や行動一つ一つに、こうでなくてはいけないと色々と注文をしてくる。
今なら笑って受け流せるが、これも半月も持たないだろうと心のどこかで考える。
テーブルをはさんで、何も生み出さない会話と発泡酒だけがいたずらに消費されていった。
気がつくと時計は3時を過ぎようとしていた。
何も連絡をしないままでは妻に怪しまれる。
”申し訳ない。少し飲みすぎてしまった。朝までSの家で休んでから帰ります。”
「誰にメールですか?」
Hの問に「あぁ、妻に。」とだけ答える。
Hも「そう。」とだけ答える。
「わかりました。お気をつけて。子供の出番までには間に合うと、きっと喜びます。」
子供の屈託のない笑顔に、急に冷水を頭からかけらたかのようにはっとする。
自分は今どこにいて、今まで何をしてきて、これから何をしようとしているのだ。
猛烈な後悔が押し寄せる。
涙で目の前はかすみ、アルコールを多分に含んだ血液は音を立てんばかりの勢いで回り始める。
周囲の音は一切が聞こえなくなり、ただただ息が苦しくなる。
いくら息を吸っても苦しさは増すばかりで、体内のありとあらゆるものが溢れ出ようと小さな口へと殺到してくるのがわかった。
身体の内部から気管が塞がれもう吐くことも吸うこともできない。
今日、僕がたどった道のりを妻はSからどのように聞かされるのだろう。
死にゆくときさえも後悔で終わっていく自分の人生に、薄れゆく意識はどうしようもない情けなさと悲しさで滲むように満たされていくばかりだった。
ふと枕から顔をあげると、先程の息苦しさが嘘のように新鮮な空気が身体へと流れ込んできた。
肩で呼吸をしながら逸る心臓が収まるのを待つ。
涙で目の周りがぐしゃぐしゃになっているのがわかった。
音色の違う穏やかな寝息が耳に聞こえてくる。
カーテンから差し込む光が、まだ夜が明けたてだということを教えてくれる。
僕は一度死ぬことが出来た。
後悔のない人生の終わりはきっとないだろう。しかし、家族をいたずらに悲しませることは避けることができるかもしれない。
まずはこのぐしゃぐしゃの顔をさっぱりと改めようと、寝室の扉を音を立てないように静かに閉じた。
おおおおおおおおお、長い。 3行で読むのをやめた。
3行も読んで偉いな、俺なんか視界に入った文字量が多いだけで読むのやめたぞ
瞑想しろ
消せ こら
今日、Sから会社をやめたいと申し出があった。 ここで書いた話は夢の中での話だけど、これのおかげで冷静に対応することが出来た。 色々なことが重なって夢とは見るべくして見るも...