2018-03-09

「またナントカ案件か」思考法の危うさについて

はてブでこのようなことを言ってる人をよく見かける。インテリはてなーに対してはわざわざ忠告することもないのだが、インテリはてなーフォロワーワナビーインテリではないので、ここでちょっと申し上げておいてもいいのではないだろうかと思った。

「またナントカ案件か」思考法において彼らが行っているのは、物事自動的パターンA、パターンBといったように振り分けることである。もちろんこういったパターン認識情報を素早く処理できるというメリットがある。パターンAであればそれへの最適な解答はαであり、パターンBであればそれへの最適な解答はβであるというように。彼らはそれがナントカ案件である認識した段階ですでに最適解を反射的に出しているわけだ。問題認識と解答がほぼ同時に行われている。刺激に対して反応が決まっている。

しかにこれは非常に合理的判断のように思える。同じようなパターンなら同じような解答が最適になる蓋然性は高い。しかし彼らはその問題が以前の問題と比べてどの程度類似していてどの程度類似していないかについてまったく考えていないのではないだろうか。彼らは自分思考法の陥穽を十分に理解しているだろうか。

物事というのは細部が重要である。細部の差異認識し、その都度そこでしか発生していない特殊条件を勘案し、適切に処理できるかどうかに知性の差が現れる。どんなに素晴らしいデザインであっても、設計がその場に適応したものでなければ効果が得られない。「またナントカ案件か」思考法においては細部の差異自動的に切り捨て、その場の状況に合うかどうかの深慮もなく、決まりきった解答αやβを放り込むのだ。そして「これで万事解決!」そう彼らは思っている。

この思考法を採用している者は物事を分かった気になっているが、正確に言うならば、彼らが分かっているのは物事から細部の差異を切り落としたあとに残った理想空想上のイメージである

彼らは物事の正確な認識を避け、「またナントカ案件か」思考法によって情報処理の負荷を軽減し、空想上のイメージに飛びついてそれを現実だと思い込む。そして、いまや現実と同じ価値を持つにいたった空想上のイメージについて彼らは解答αなりβなりを提示して、すべてがうまくいったような気になっているのだ。物事パターンAそのものであれば彼らの解答αで完全に片がつくだろう。しかし世の中はそれほど単純ではない。それは問題矮小化議論の簡略化にしかなっていない。

物事にはすでに用意されたパターンによっては拾いきれない膨大な背景が存在し、その背景の要素同士がさまざまに絡み合って、一つ一つの物事をそのときそこにしか存在しない独特のものにしている。

情報を受け取ったとき第一印象として、パターンAに類似している、あるいはパターンBに類似しているなどと察するのは問題ない。賢い人は一瞬でそういった思考をめぐらせて大体の全体像を把握する。しかしそこで「これはパターンAに類似しているからαをやっておけば問題ない」とするのははてなーに求められる態度ではない。類似したパターン検索するのは始まりにすぎず、むしろそこからすべての議論が始まって深まっていくはずなのだ

だがどうもこういったことができない人をよく見かける。「AだからAなのだ。だからαすればよい」などといった態度はどれほど知的な態度だというのだろうか。こういった種類の人間自分の有するパターンの数を誇っているのかもしれない。「俺は1000のパターンを持っているか現実対処するには十分であろう」などというように。こういった傾向を「知識オタク」と言えるかもしれない。

しかし実際のところ、彼は1000個のボタンと、そのボタンを押すことによって得られる効果を丸暗記しているだけなのだ。Aを押したらαが出てくる。ただそれが1000個あるだけなのだ1000個では現実を生き抜くには少なすぎるだろう。それなら1万か、10万か、100万か?

おそらくそういうことではない。

こういった「またナントカ案件か」思考法によると、完全に未知の問題には対処できないのだ。未知の問題に挑んでいくのが知性というものではないだろうか。

安易判断を下す前にまずは物事をよく観察し、情報を揃えてみてはどうだろうか。SNSを中心にやっているとインターネットというのは速さが求められがちだが、実は自分のペースで好きなだけ考えることができる空間でもある。

かつてお笑い芸人おぎやはぎが「一概には言えない」と言っていたことがあるが、まさにこれなのだ。こういった態度にネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。しかし一概に言えないということは何も言えない、言わないということを意味するものではない。むしろ何かを言おうとしている態度である。だから何か言うまで待ってほしいし、十分に待つべなのだ

デマ情報嘘ニュース拡散問題になっているが、「またナントカ案件か」思考法ともつながっているのではないだろうか。情報を見た瞬間に「これはひどい」あるいは「これはすごい」と認識し、それですべてを理解した気になってしまう。背景にどういった事情があるのか記事バイアスはどう評価できるかなどを考慮せずに、あるパターン類似した情報を、「きっとあれのことだろう!」と自分の中にある既存イメージに結びつけて理解した気になってしまう。現代インターネットには速さと同時に短慮がある。あるいはそれは短慮ですらなく、自動化されていて、ほとんどbot化しているとも言えるかもしれない。

どうか考えることをやめないでほしい。昨日うまくいったやり方で今日明日も乗り切れると信じるのはやめよう。

  • 人間の優れた特性って「瞬時の枝切り」らしいよ だから錯覚も起きるんだけど、瞬時の枝切り能力によって圧倒的に思考速度が速いんだって

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