夜の7時に休日出勤を終えて、かつやで竹を頼んで食って、ローソンでそれ全部吐いた。
パチ屋に行けば目当ての台が埋まっているし、スポーツニュースを見れば贔屓のチームは2番手ピッチャーが押し出しのフォアボールで失点している。
それで、もう駄目だと思った。
田中じゃなくて俺が。
気がついたらイオンシネマの2番スクリーンにいて、右手にはレギュラーサイズのコカコーラゼロ。
暴力だ。
残酷で非日常的な暴力だけが、萎びてしまった俺の何かを賦活してくれる。
そんな期待をしていたと思う。
目を覆いたくなるような流血が見たかったし、息が止まるほどの処刑で呼吸を取り戻したかった。
アウトレイジ最終章は、けれど、そんな慰めを俺に与えてくれなかった。
もちろん、派手な虐殺シーンもあったし、ドキドキするような残酷なシーンもあった。けれど全体を通して、「極道」という社会のバランスを乱すまいとする配慮、政治や駆け引き、パワーゲームが、登場人物たちを支配している作品だった。
そういう、大きすぎる力による抑制が、まるで冬の真っ暗な曇空のように立ち込め、個人の感情も、理不尽な狂気の発露も、押さえつけてしまっている。
暴力は、適切なタイミングで、必要に応じて振るわれ、その結果は政治的なサムシングに吸収される。
ビートたけし演じる大友は、暴力で全身パンパンになっているような男で、何よりメンツを重んじ、舐められたらタダじゃ済まさないような危険なヤクザだ。
けれどそんな彼ですら、自分の置かれた立場からは自由になれない。
世話になっている組織から厄介ごとを起こさないよう釘を刺されれば、やられたらやり返す、なんて単純には動けない。
それはつまり、しがらみだ。しがらみの中で、大友はそれでも、舐められたままでたまるかと、己のアウトレイジのままに殺しまくる。けれどその暴力が、彼に何かを与えてくれることはなく、むしろ彼から奪っていく。
そして、暴力は何も変えない。
大友の暴力が起こした波も、極道社会の中の政治が鎮めてしまう。大きな力の前で無意味にされてしまう。
西田敏行演じる頭の暗躍も、決して逸脱せず、大きな抗争を避けるように振舞われる。
警察にも同様の描写がなされている。大友を追う刑事も、警察という組織の裏の力関係、圧力に屈し、潰される。大きすぎる存在と揉めたくない、そんな組織の論理に敗けて、退場する。
みんな無力で、無力な中で何とか上手く立ち回ろうとして、死んだり、生き残ったり、利を得たりしている。登場人物の個性は、暴力や野心よりもむしろ、処世の中に表れる。映画は怒声や銃声で満ち満ちているはずなのに、そんな男たちの有り様が、ある種の寂しさ、虚無感を持ってこちらに伝わってくる。
作中、大友の最後のセリフは、会長によろしく伝えておいてください、だった(と思う)。しがらみが、彼にあの最後を与えた。その不自由さは、今日の俺には重かった。