差し挟まれるCMという夾雑物、その存在自体を許せなくなってくる。
それをすぎると、動画そのもの、見るという行為を看過できなくなった。
だが最終的に、内容自体に意味がなくとも、その時に流れているものを即興的に暗喩、引用するという共感に要す資源、コミュニケーションツールとみせなせるようになったので、CMのほうが意味があるのであった。
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