山を登る人間は、すべからく山で死ぬ覚悟を決めているべきである。
ベテランであろうと、世界最高レベルのアルピニストであろうと、死ぬときは死ぬ。それが山、特に雪山である。
山で死のリスクをゼロにすることは誰にもできない。これは厳然たる事実である。
だから、私のような門外漢が言うまでもなく、山で死んだ人間は100人が100人とも、山に入った時点で死んでも構わないという覚悟を決めていたはずだ。
無論、可能性の話をするならば、死ぬ覚悟もせずに山に入った愚か者は存在し得る。
しかし、そんな可能性に思いを巡らせて勝手に被害者を憐れむのは、むしろ侮辱であるとわきまえるべきだ。余計なお世話、余計な忖度だ。
回避不能な死のリスクを、他人に負わせることは道義に悖る。自分の命の責任を、自分以外の人間に押し付けていいのは半人前の子供だけだ。
だから死を見届けた人間は「被害者は覚悟を決めて山に入ったのだ」と推定しなければならないのだ。
反証が存在しない限りにおいて「山で死んだことは、本人にとって了承の上の出来事だった」と仮定すべきなのだ。
山で死んだ人間の死の原因を本人以外の人間に求める者は、自らが故人の尊厳を貶めているのだということに深く思い巡らすべきだと私は思う。
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おもしろそう
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