最近のツイッター、優しい方向へ優しい方向へシフトしてる気がする。
おもいやりとか、本当につらいことを無理しすぎるなとか、これまでなりふりかまわず進んで犠牲にしてきたものを拾い集めるみたいな傾向ある。
それはいいことだと思うし、そういう言葉に自分も救われてきた側面はある。
対人ストレスでツイッターやめる人。ツイッターのシステムと自分のスタイルが合わなくてやめる人。結構じゃん。かしこいかしこい。
かれらは自分で問題と向き合い、日々つみかさなるストレスの収支をちゃんと見直した結果、最大の原因としてツイッターを切る選択をした人だ。
アカウント消しからトライして様子を見る人もいる。それもその人が問題をきちんと見つめている証拠じゃないかと思う。
自分にとって正解が見つかるまではトライ&エラーあるのみだからな。
ツイッターにかぎらず、それが人によってピクシブだったりブログだったりインスタだったりする。いいじゃないか。やり方を模索もせず、環境ばかりに地団駄ふんでギャン泣きする坊や嬢ちゃんにくらべれば人間として真っ当じゃないか。
じゃあなにがだめかっていうと、そのやめた人たちの背を追って、「かれらを追い詰めた原因」に責任を追求する行為だ。
アホじゃないかと思う。
あなたたちの身勝手な行動で傷ついてツイッターをやめた人たちがいます、こんな不幸な人たちを増やさないためにも私たちはかれらにかわり、あなたを罰します。
アホじゃないかな。
素直に「私もそれにムカついていたんです!!それを続けられたら私までここを追われます!だから私がここで生活しやすい環境作りに従事しなさい!!」って言えばまだかわいげあるものの(いややっぱり落ち着いてって思う)、かわいそうな犠牲者の「被害者性」を笠に着て、文句ばかり。それで本人は世直し気分なんだからおめでたいといえばおめでたい。
考えて、自分で結論付けて行動した人間を自分の主張に利用するのって、なかなか厚顔無恥だなと思う。
自分だって脳みそくっついてるんだから、考えて行動すればいいのに。結局どっかに折り合いをつけるしかないのに、自分が敬われないことを嘆いてまわりを糾弾するばっかりじゃないか。
やめることを選んだ先人と違い、残ることを選んだのだから、そこは折り合いをつけたらどうか。それが自己責任じゃないか。
昔、要約すると「なんで自分がこんなに不快な気持ちになってるのに自衛しろって言うんだ、普通他人に不快な思いをさせたら申し訳ないって思うものじゃないか」と唾はいてツイッターやめた人がいた。