毎度お騒がせしております。
ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、僕は増田活動の傍ら、増田作家としても増田しておりまして、3ヶ月前に発表した『現象学から見る"なぜうんこは口から漏れないのか?"』という増田が23万ブクマ突破というマグレ当たり。
本当に皆様のおかげです。
いつも本当にありがとうございます。
twitterやはてなハイク、ホッテントリや痛いニュースや国会で、取り上げていただくようになり、連日、色々なブコメが僕のもとに届きます。
その中で一通、とても気になったブコメがありました。
それは、
「公共の場で脱糞するのは難しい。自分はできない。こんな私はブクマをもらえないのでしょうか?」
という意見。
クソを綺麗に出す為に特殊な薬物を使っていて、使用しているおむつの数も一般的な赤ん坊より多く、そして排便回数も多いので、脱糞という行為はギリギリまで頑張ったのですが、それでも脱糞。
たしかに、女子中学生からしてみると困難で、自分の意思でクソを漏らすことは難しいです。
実は、ここ数日、このことがずっと気にかかっていました。
《自分は脱糞のよろこびを子供にも届けたいのに、たった「クソを守らせない」という理由で、漏らしたくても漏らせない子がいる。》
双方が求めているのに、『肛門』なんかに「ちょっと待った!」をかけられているのです。
「なんで、みんなが幸せになる為に発明した『脱糞』に、支配され、格差が生まれてんの?」
と思いました。
そして、『脱糞』にブクマを握られていることが当たり前になっていることに猛烈な気持ち悪さを覚えました。
糞すいすいすいようび〜。
……いや、おなかの調子によっては、そういう日があってもいいのかもしれません(←ここ大事!ねとらぼになるとwwwのつく部分ね)。
しかし、はたして全てのブクマが『脱糞』を介さないといけないのでしょうか?
SNSで誰とでもオフパコできるようになり、『国民総穴兄弟時代』となりました。
ならば、ブコメなど介さずとも、昔の田舎の集落のように、野糞やポットン便所的に回るモノがあってもおかしくないんじゃないか。
「うんこ」という《糞》で回る人生があってもいいのではないか。
そんなことを思い、
そして、
一度思ってしまったら、行動せずにはいられないタチなので、行動します。
腸内サイドの理由になるのですが、実はこの決断には勇気が要りました。
僕の社会的立場はすでにこのまえの東京駅大脱糞事件で内も同然ですが、増田やはてなは増田の脱糞(おもらし)告白投稿で生活しているからです。
「脱糞を公開してしまうと、食いっぱくれてしまうのではないか?」
しかし僕は、『10万ブクマつくコト』よりも、『1億人が他人が漏らすところを見るコト』の方が遥かに価値があると考えます。
1億人に見せることができたら、その瞬間は1ブクマにもならなくても、後から何とでもなると思っていますし、なんとかします。
それに、「増田君、こないだはありがとね」とはてなスターぐらいご馳走してもらえるんじゃねぇかな、と思っています。
だったら、もう『増田』なんて要らないです。