どっちかというと、いちど書籍化したなろう作家が、現行シリーズの刊行中から次回作をなろうに投稿して、そこから再び書籍化orコンテストに応募というサイクルが出来上がりつつある。
労働市場全体を考えた場合、労働者は最小の単位なのでミクロだし
市場全体を見据えた理想を掲げる人は「マクロ寄り」だと思います。
ブラック企業を潰せというのは、視点として明らかにマクロ寄りなものだと思いますので
何が面白かったのかよくわかりません。
ちなみにフェザーやヒーローの頃は既に「大手レーベルならなろう作品は売れる」と分かったあとで、
次は中小レーベルでも売れるのかと観測気球的に注目が集まっていた。
それで売り上げが良かったから、各社とも一気に参入してきたわけで…
>なろう作家(焼かれた土地)が売れなくなったら(作物がそだたなくなったら)、
>新たななろう作家と小説を(土地)を焼いて使えるようにすればいいって状況がまさしく焼畑農業
俺の周りのコアなラノベ読みはそんなこと言ってなかったが…
東大A判定も、全国模試で優秀者に選ばれることも、幸せには繋がらなかった。
日本一偏差値の高い女子校に通っていた。生徒の半分は東大か国立医学部、残り半分も大多数は早慶か私立医大に進んだ。
学校名を言うと小々波のように男性が引いていく。褒めてくれるのはドMかヒモ志望。生きてるだけで非人ならぬ非女の扱いを受ける。お前は女に非ず。
自分の容姿がまずいだけかとも思ったが、コミュ力のある美人の同級生たちは、むしろ学校名を聞くまでは男性にちやほやされ、学校名を言った途端手のひらを返したような態度を取られていた。
入学したときは誇らしかった学校も、人に聞かれたら学校名を誤魔化すようになっていた。初めて袖を通したときは嬉しくてたまらなかった制服も、着ると罪人のような気持ちになった。
どうして同じ難易度の男子校は同じように勉強をしたはずなのに、学校名だけでも箔がつくのだろう。
元々リードしてもらい、可愛がられることが好きだったので、「違う、恐れられる存在になんてなりたくない。ドMやヒモ志望に『引っ張って欲しい』なんて言われたくない!」と強く感じていた。
男性からの評価ばかり書いたが、女性からの評価も似たようなものだった。「あんな勉強ばっかする学校行ったところで、何の得にもならないのに。そこそこ出来ればいいのよ。」と言われているようだった。
受験前はあれだけ優秀な人達に囲まれることを望んでいたのに。最初の志も霞むくらい、自尊心が削られていた。大好きで尊敬している学校の友人らが貶されるのも辛かった。
通っていた学校は東大か国立医学部を志望するのが当たり前だったが、自分がそういう学校に進んだところで、また学校名を隠し、自尊心が削られたまま生きなくてはいけないことが耐えられなかった。特に出身大学は一生経歴としてついて回る。
私は経歴ロンダリングをすることにした。受けのいい大学に入学し、受けのいい会社に就職した。
もう所属を隠すこともない。むしろステータスになるくらいだ。信念は曲げられ、大事なものは失った気がするが、今は望み通りの環境にいれて、満たされている。
明確な将来のキャリアプランがあるひとにとってはトップの学歴は有意義かもしれない。でも、「いわゆる女の幸せ」が欲しい人間がトップの学歴を持つことの意味は、まだわかっていない。
編集が新しく新人(土地)を育てて立てられないっていう点ではまさしく焼畑農業そのものだよなぁ
なろう作家(焼かれた土地)が売れなくなったら(作物がそだたなくなったら)、
「if文がせいてきだとコンパイラの警告がでる」という話をしたらおかしな顔をされた
性的なif文ってなんだよ
if(ごはん) { } else if(おふろ) { } else { // それとも・・ }
それはそのとおりだと思う。
ヒーロー文庫が創刊して小説家になろうからの書籍化が流行りだした頃、ラノベ編集者や自称ラノベ読みは「焼畑農業、焼畑農業w」とか言って一過性のことだと馬鹿にしてたんだよね。
でもあれから数年、2016年現在だとなろう書籍化作品以外は中々売れてないんだよね。
新人賞デビューよりもなろうランキング上位の書籍化の方が売れちゃうんだよ。
だから当時「焼畑農業w」と言ってた先見性のない奴等に言いたい。
「焼き払われたのはどっちだよwww」と。
労働者が職を失ったときの精神的ダメージは相当なもので、自殺の直接的な原因になる場合も多い。特に男性。増田の懸念は妥当なものだし、これを踏まえないでブラック企業問題を語るのは手落ちもいいところだわな。
同意。比喩表現を使わないと説明できないものにはきちんと使うようにするべきだし、元増田で言われてる様は全て比喩表現は悪行みたいなのには賛成しかねる。
むしろ例えを一切出さずに抽象的な話に終始する人とかのほうが、そういう場では良くないわなって思う。こっちが知らん概念を相手が教え込もうというときに何かで例えてくれよって思う時は多々ある。
「『兄弟』ってさ、姉と弟とか、兄や妹でも『きょうだい』って読むじゃん?」
「そうだな」
「でも、『しまい』って読みは姉と妹だけだろ?」
「まあ、それぞれ一応は他にも読みがあるが」
「ほお」
「つまり、いずれかの組み合わせを『しまい』読みにすれば丁度よくなるんじゃないかな」
「へえ、例えば?」
「姉と弟の組み合わせを『しまい』読み」
「なぜその組み合わせを?」
「年功序列」
「あ、センセイ」
「そういうのはね、全部『しまい』読みにすればいいんですよ」
「ん? それでいいんですか」
「天びんによる調整が上手くいかないなら、二つある皿を一つの皿にしてしまえばよいのです」
「すげえ! さっすが先生」
「まあ、私みたいなのからすれば、そんなことをして誰が得をするかってことを真っ先に考えますけど」
「寂しいことを言いますね」