いい師匠と出会うことは難しい。そもそも弟子の段階で誰がいい師匠か分かるなら、そもそも結構実力がある人である。
ハンターハンターや幽々白書なんかはいい師匠に恵まれている漫画の典型である。弟子の限界点をある程度分かっていて、限界ギリギリもしくは少し上くらいを目指して成長を促す。また、師匠といってもほどよくレベルが上の師匠がよい。ハンター試験受けてたころのゴンがビスケが出会っても、弟子としての条件も満たしてなくて弟子になれなかったはずである。だから、いい師匠に出会うというのは「いい師匠に出会う」だけでなくて「いい師匠に見合うだけの弟子となった状態で出会う」必要がある。全くのド素人を構ってくれる師匠もいるだろうけれども、そういう師匠は逆にいえば、必ずしも弟子の成長につながるわけではない。それは弟子次第、というわけだ。
また、「いい」師匠という言葉も難しい。有名な先生だって、自分と性格が合うかどうかなんてわからない。何が「いい」のか。成長を促してくれる師匠が「いい」というのであれば、そんなこと誰がわかるのだろうか。今思えばいい師匠だった、今思えば優秀な人だったけど成長にはつながらなかった、つまり結果論でしかない。
弟子の姿勢というものももちろん重要だ。いい師匠というのは単に優しい師匠ではないことは何となくわかる。優しいだけでない面に出会っても、耐えて成長につながっていく姿勢が弟子には大事だ。師匠の視点から見ると、そういった弟子を見抜くのも上記の例と同様に大変なはずである。弟子をとりたい、という師匠は基本的には自分の引き継ぎ手を探しているはずだ。そんないい弟子と出会おうとする師匠にとってもいい師匠に出会おうとする弟子と同様に大変なのである。
だから、そういうことを考えているとこんな考えが浮かんでくる。いい師匠、いい弟子、という括りではなく、それはもはや人と人の巡り合わせなのだろうと。人が人と出会うというのは運、というか運命に近いところが作用してくるところだ。その運命の中でいい師匠といい弟子が巡り合うのではないかと思う。もちろんいい師匠に出会おうとすることすらしない人はいい師匠と巡り合わせる可能性は下がるだろう。しかし、それは可能性の話である。芸能人の過去の成功話を聞くと、とくに何もやる気はなかったけど、たまたまプロデューサーの目にとまった、そういう人もいる。可能性を上げる努力はもちろん大事で、後から考えるとそれが成長につながったということは多々あると思う。でも、やっぱり可能性の問題でしかない。
人はだれかに何らかの形で仕えることが多い。サラリーマンなら職場の先輩や上司に仕える。師匠なんて言葉はもちろん使わないけれども、影響は多かれ少なかれ受けるはずだ。いい影響を受けて、今後の成長につながったとしたら、それはいい師匠だったということになる。師匠を選べるという人ならいいけど、あまり選べない人も多いはずだ。だから、いい師匠と出会うというのはえいやと飛び込む気持ちで選ばなければならないということだ。やっぱり、結局のところえいやと飛び込んでもいい師匠であるかはわからない。
亀仙流と鶴仙流との対比とか?