判官びいきというのは、江戸時代からある(から忠臣蔵が人気歌舞伎にもなった)わけで、確かに日本人は昔から「勧善懲悪」劇よりも、むしろ「善人が弱者で玉砕」する話が好きだ。
だが、これは「絶対的な神」をもたない民族において大衆が、勧善懲悪と社会の安定を同時に保つために一番有効な「好み」だったと考えるのが適切だ。
つまり、体制的上位者における「悪」が露見したときに、「絶対的かつ超越的な存在」さえあれば現行の王が打倒されても価値観の転倒が発生することを危惧しなくていいわけだが(むしろ、新しい王は古い王と違って、より正しく神の御心を地上で実現してくれるだろうが)、日本では残念ながらそれが期待できない。ゆえに大衆は、自己を仮託するために「弱い・だが正しい」存在を希求するものの、それが下剋上することには本能的に不安を覚えるので、結果かれらが敗北する(そしてその敗北は悲劇的な、すなわち玉砕であるほどよい。なぜならそのほうが、その敗北が大衆自身の望んだ結末なのだということをよりよく隠蔽してくれるから)という結末のドラマを求めることになる。
という仮説を1分で考えたのだが、どうだろう?
なんで日本人というのはああいう劣勢の側について挙句に玉砕する話が好きなのだろう
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