何かに異議を主張したいなら、普通は例えば次のような流れで書くのだ。
AについてBだと言う人が居る。
だが私はCだと思う。
よってAについてはBではなくCだと思う。いかがか?
だが元増田は
AについてBだと言う人が居る。
あれなんなの?
BだったらB1になるじゃないですか。それにB2にもなる。B3だっていうんですか?
わたしはCだと思う。それはC1だし。
Eについてはわかるんですよ。
と、やっているように私には見える。ポンポン提示される話題とそれ以前に出してきた話題との関係が把握できず読者は落ち着かないまま連れまわされて、最後に憤慨している増田と対面したまま放置される。これでは納得してもらえない。
文章として圧倒的に足りないのは、話題と話題との関係を示す次のような言葉だ。「すると」(順接)「一方」(対置)「また」(並置)(参考:http://pothos.main.jp/setuzokusi.htm (適当にぐぐった))「ここでこの話題だったら関係なんて当然分かるでしょ」などと思ってはいけない。こういった語を使い明示的にマークして読者を案内するんだ。
それから(根本的には同じことなのだが)話を展開したら主張を成立させるために最初に戻る必要がある。だがそれが無いまま次々と突き進んでいる。普通は「なぜなら」(理由)「例えば」(例示)「もし」(仮定)といった語で展開していったら「なので」「だから」といった語で「そこまでの流れが締めくくられますよ」ということを明示して、そこまでの主張を示すものだ。
こういった文章の場合、読者は話題に馴染んでいようとも「うんうん。わかるわ~」という姿勢で逐次飲み込むのではなく、賛否を一旦保留したまま「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。で?」という姿勢で、示された事を順次仮置きしながら読んでいる。その流れの中に締めくくりの語が来ると、それを手がかりに「なるほどそうだね」とか「いや違うと思うな」と読み手なりの評価をして仮置きを取り崩す。そういうようにして読み進める。
だが、明示が無いと仮置きをいつ止めればいいのか分からない。仮置きとして覚えていられる量には限りがあるので、過度に詰まれ続けると読者は「意味わかんね」と放り出してしまう。場合によっては無用な負荷をしいた筆者にちょっとした怒りさえ感じるかもしれない。だからいちいち「ここで一旦終わり」という事を示して読者の負担を取り除いてやる必要がある。
(元増田は書き手の前に読み手として、こういう仮置きしていく読み方が会得できてないのかもしれない。元の話題の「本気なんですかね」も、そういう読み足りなさから来ている誤解な気もするよ。前後を見ずにその部分を飲み込もうとして「おぇぇ」ってなってるんじゃないかとね。)
自説の説得力を高めようとする場合に、話題を沢山持ち込んで「だってほらこんなに」とするのは悪手だ。沢山伝えたい話題を抱えていても読者に納得感が高いだろう少数を選りすぐって話し、まずは一旦結論まで持ち込んだほうがいい。それでも言いたいならその後で「こう思うかもしれないが、こうだよ」と補足していけばいい。最初の屋台骨がしっかりしていればそういった後付は受け入れられる。
元増田の文章はどこが骨でどこが尾ひれなのか読み取れないのだ。物語文章などでは初回の読書ではどこが核心なのか分からないから面白いのだが、こういう論説文では、これもまた仮置きを強要するので読み手をイライラさせてしまい嫌われる。
そうですか、うーん……。 言葉が多いんでしょうか、言葉足らずなんでしょうか、言葉の使い方がずれてるんでしょうか。それ以外かもしれないですが。
だからさー その文章で何が言いたいの? 「悪い部分を指摘してください」なの 「私はいいと思ってるんです」なの 話は結論から入れよ
「悪い部分を指摘してください」です。
文章というものはまず目的がある。 その結論に向かって読者を説得するように 自説を補強する材料を提出していくわけ。 自説が正しい理由、他説が間違っている理由を順番に出してい...
ありがとうございます、助かります。
私は反応した増田ではないが、対話可能そうなので書いてみる。 何かに異議を主張したいなら、普通は例えば次のような流れで書くのだ。 AについてBだと言う人が居る。 だが私はCだ...
ありがとうございます。 そういえば接続詞を使えってことは学生時代に小論文の授業で解説されていたのを思い出しました。 接続詞については素直に気を遣ってみようと思います。(と...