小さい頃から、まったく運動のセンスがなかった。友だちと鬼ごっこをすれば、すぐに捕まって鬼になってしまったし、一度鬼になったが最後、いつまで経っても他の人を捕まえることができなかった。結局、そんな僕を見かねた友だちがわざと近くまで捕まりに来たり、僕だけ有利になるようなハンデをつけてもらったりしていた。
小学校の授業でドッジボールをしたときは、最後の方まで残ることが多かったように思う。僕はほとんど戦力になっていないので、ボールを当てるのは後回しにして構わないからだ。運動が得意な子たち同士の激しい応酬が一段落した頃合いに、遠慮がちに投げられたボールを避けそこねてコート外へ出るのが僕の日常だった。野球やキックベースをしたときも、僕は守備の役には立たなかったし、打者になったときには投手がかなり手加減をしてくれていた。
男の子にとって、運動が上手にできないというのは、人間としての価値がほとんどないのに等しい。そんな空気を感じ取っていた幼い頃の僕は、自分はみんなよりも劣った存在なのだと信じて疑わなかった。
そんな自分自身のことが恥ずかしすぎて、特別親しい相手以外とはコミュニケーションを取るのが苦痛だった。できる限り他人との関わりを避けているうちに、自然と、社交性に欠ける今の人格が形成されていったのだと思う。
こんな僕だけれど、勉強だけはすごく良くできた。授業を聞いて理解できないという経験は一度も無かったし、大して勉強をしなくても試験ではいつも上位に入っていた。受験でもまったく苦労をせず、地元で一番の進学校へ入学し、日本の誰もが知っているようなトップレベルの大学に合格した。
いまの歳になるとこういう話は自慢だと受け止められるけれど、思春期の頃の僕にとっては、勉強ができることなんて自慢でもなんでもなかった。勉強ができたって、世の中の役には立たないし、かっこよくは無いし、女の子にはモテない。そう思っていた。
もし、できることならば、あの頃の僕に言ってあげたい。
近い将来、学ぶことが楽しくてたまらない毎日が訪れること。研究という、かけがえのない仕事に出会うこと。昼ごはんを食べるのも忘れて、海外の数学書を読みふけるような大人になること。まる一日、方程式と向き合って、解けるまで家に帰らないと意地を張ったりすること。客員研究員という肩書きをもらって、ヨーロッパの大学に滞在すること。研究でいろいろな賞を貰ったりすること。周りの人たちから期待され、また、尊敬の眼差しで見られること。
なにより、もうすぐ童貞のまま30歳を迎えるということ。