2015-09-23

関係に埋もれたくないけれど繋がれないのは寂しい

人と関わるのが苦手だ。

人と話すのは好きだし、調子が良ければちゃんと笑いだって取れる。自分のことを話すのは苦手だが、聞き上手と言われることはたまにある。

たまに同じような人の話を聞くが、コミュニティ内の人の前ではキョドってしまうが、赤の他人の前ではあたかも社交的な人のように振る舞えることがある、というタイプコミュ障だ。

他人が怖いんじゃんくて、自分がどう見られているのかが気になってしょうがないのだ。自分に自信が無いから

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でもそんな自分自意識過剰さを正当化して生きてきた。社会的価値観をそのまま受け入れるんじゃなくて、どこまでも疑って、言ってしまえば捻くれた考えを作り上げてく。

自我が強ければ強いほど他人とは違う自分になれる気がした。所謂リア充の話は、世俗的すぎてシンプルでつまらない。

僕が天才ならそのままでもよかったかもしれない。でもどこまでも凡人で他人評価から逃げられない自分は何も作れなかった。

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最近思うのは、人は動物しか無いということだ。ただ欲望を満たすだけ。

何をしても満たされずに心に穴が開いているように感じるのは、行動の規範を与えてくれる宗教的ものが無いからだと少し前までは思っていた。だから不安を覚えてしまう。

でも多分違っていて、人間は常に欠落感があって、それを起動力に穴を埋め続ける。三大欲求も承認欲求も。利他的行為他人の穴を埋めてるだけだ。

そう考えれば人間だって動物となんら変わらない。彼らも承認欲求があるは知らないけど、利他的行為はするものね。

理屈をこねるというのもそうした欲望の一つに過ぎないと思う。例えば、オタクは女に相手にされないから、女を叩いて満たされない欲望を回収する。

どう頑張ってもモテない人はいから、そういう人にミソジニー辞めろっていうのも酷な話だけれど、やっぱり気持ち悪い。イケメンになっても同じ貞操観念を持ってる自信があるものだけまーん(笑)とか言ってほしい。

自分自意識がこういうオタク正当化と同じ機能果たしてることはわかっていたけど、それを越えた正しさを信じて生きてきた。でも、もう信じられない。

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から評価が過剰に気になるというのも一つ大きな問題点だが、理屈っぽいというのももう一つの問題点な気がする。

何をするにしても言葉で考えてしまう。美味しいものを食べても、料理蘊蓄のほうが気になるし、映画のものよりも批評が読みたくなる。社会的意義とか意味を考えてしまって全てが取るに足らないくだらないものに感じられてしまう。好きだったものも色あせて、何も好きじゃ無くなっていく。

自分友達も大抵、理屈っぽいがだいたい不幸せそうだ(自分友達理屈っぽくて不幸せそうな人ばっかりってだけかもね)。世界言語分節することなく、ありのままそのまま感じたい。

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これからどうやって生きて行こう。幸い、いいとこに内定もらえそうなので食べては行けそうだけど、今の状態で働き続けられるんだろうか。卒表間際に何もわからなくなってしまった。

考えすぎてしま性格も今更変わる気がしない。ここ十年くらいは何かに集中することができなくて常に上の空だ。世界フィルターを通してみている気分。

そもそも理屈をこねてしま自分を変えようと理屈をこねるというのが根本的に間違っている気がする。

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と、とりとめもない長文をすみません意見やら、参考になる本とか教えてもらえると嬉しいです。

読んでくれてありがとう

  • 言語化できる自分ってすげぇと勘違いせずにちゃんと相手を尊重して人間関係の距離を測るクセをつけたら良くなるよ

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