大分県国東市周辺で開催されていた国東半島芸術祭で「希望の原理」という展示を見た。
使われなくなった町役場を会場に複数の作家の作品が展示されていた。
面白かった。
廃校になった学校や町中の施設で展示を行う、というのはよくあるが、たいていは面白く無い。
美術館やギャラリーで見た方がまだましなんじゃないかという展示だったり、
会場との関係性に媚びすぎて作品自体がどうでも良くなっているものだったり。
見ているうちにこちらが白けてしまう。
良い作品に出会った時、面白いものを見た時に共通することがある。
その前に、もう一段階前の話。
美術館やギャラリーでちょっと面白かったり、楽しめたりする展示に出会うことある。
ただ、それは「見て損しなかった」という感覚にも近い。
録り忘れたなら見なくてもいいけど、なんとなく毎週見てしまう寡作なテレビドラマやアニメ、
単行本は買わないけど、雑誌の立ち読みでは読んでしまうマンガ。みたいな。
この作品はこういう仕組みで動いているな、この作品の素材は何々かな、
誰それの影響を受けてるっぽいな、ここのとこ仕上げは手抜いてるな、
設営は大変だっただろうな、低予算ぽいのに工夫してがんばってるな、
鑑賞を終えたあとで振り返ってみれば、何か日常と切り離されて異空間にでも居たかのように感じる。
その感覚は、作品自体の詳細は忘れてしまっても記憶として長く残るように思う。
本展では、個々の作品が全体の要素として上手く機能していたように思う。
個々の作品が、自我を主張しあうのではなく、溶け合おうとしているわけでもなく
悪く言えば、何か強烈に印象的な作品があったわけではなかった。
(いや、会議室で展示されていた映像作品は、それだけでとても印象的ではあったが、
それでも会場全体の中の一つとしても機能していた。)
にもかかわらず、小品まで記憶に残っているのは
町役場の廃墟が非日常的であり、日常から切り離されるのに一役買っていたかというと
少しずつ「本当にあった景色」を「どこにもなかった景色」へと空間を歪ませていく。
現実と非現実を横断し、自分自身の記憶と思考を巡らすことになる。(なった)
展示の中に虫の標本のようなものがあった。
町役場内の元々あったとは思えない場所に虫を置いた瓶が並べられていた。
それとは別に赤いブロックで囲まれた植木のような作品の縁に一匹
会場内(廃墟)の別の場所、「保健室」と入り口にある部屋の流しにも
それは意図して置いたようにも思われるし、会場が田舎であることも相まって
そこで死んでしまっていたようにも思える。
そこで、空間が歪む思いがした。
擦り合わされ混濁し、見るものの足場をぐらつかせる。
虫の死骸一つで、見える世界が変わる。
そんな印象を持って、会場を出た。