他人。
つまり、自分にとって、申し訳ないけれども、気持ちが遠い人。生まれも育ちも違う、心から一緒に笑い合うことが、たぶんできない、
そういう人のために、自分の自由を制限したり、配慮したりしなければならない。
それは、いつだって辛かった。
恋人。同郷の友達とか、おなじ趣味、おなじWebサービスを使う仲間たち。
そんな皆の気持ちを推し量ることはできるし、自然だ。
赤の他人に対しては、そうではなかった。
「自分もいつかその人のようになるかもしれない。だから今から、その人の気持ちを考えておこう。」
そんな風に生きるのはハード。
「わたしたちの気持ち、一度でいいから考えてみて?」
に対して、
「わかった。やってみるよ。気づく機会を与えてくれてありがとう」
と応えられる人は少ない。
不自然な生き方をしたくないから、私達は住み分けることにした。
痴漢の被害にあってしまうかも。痴漢に間違われてしまうかも。そういった不安から開放された。
みんなと一緒に楽しく笑う写真が行き交う場所があって、帰りの遅い夫の愚痴を言うことが許される場所がある。
もう誰にも迷惑をかけなくていいし、迷惑をかけられる気持ちを想像しなくてもいいんだ。『同情』から解放された。
住み分ける。
だから、健常者と障害者も住み分ける。誰もが堂々と胸を張って生きる。それが出来る。そんな社会を目指して。
だがそれが理想でいいのかよ。
モヤモヤするぞ