「お耽美」という言語にことさらな意味を込める用法があるのも知っているし、そういう意味・世界があることを否定するわけではない。
でもそういう要素・感覚に対して「お耽美」という用語を用いることが大嫌いだ。
そういう感覚に対しお耽美なんて用いるのは言葉のセンスのかけらもねえと思う。
多くの場合「耽美」が何かも充分に把握もしていないのにそれに「お」をつけてそれっぽくしている。
「お耽美」という、「耽美」に担保されうべき用語を用いているのにもかかわらず「耽美」が何にもわかってねえ。
2×13があるとして、13が何かわかってねえのに「2×13って26っすよね~~~マジお耽美っす、13とかよく知りませんけど」とか言っちゃうのと同じだ。
「耽美」を知るには美学を知らなければならない。ある程度リテラシーが必要だ。
「お耽美」を感ずるということは美学という学問の世界に挑戦することに他ならない。
それを擲ってしまっては「お耽美」は本来語りえぬものなのではないだろうか。
「耽美」は奥深い。そしてきっと「お耽美」の世界も「耽美」の因数を持つ以上奥深いはずだ。
だがどうだ「お耽美」が安っぽく語られていないか。自分のそれっぽい感覚だけで「お耽美」と断じてやいないか。そこにリテラシーはあるか?