今朝、バスの運転手が混雑した車内に「妊娠している方以外の若い方はお年寄りに席を譲ってください」と放送し、あまつさえ〈年配ではない〉特定の乗客を指して「席を立って譲ってください」と呼び掛けていたが、これはマナー・気遣いの啓発を超えた、行き過ぎな指図だと思った。
座席は満席、揺れて不安定な足元、圧迫感のある車内で、年配の方に配慮して席を譲るのは「よい行い」で「必要なこと」であることは否定しないが、〈年配ではない〉乗客が、立っていられない事情を抱えて路線を利用している可能性を、運行主に否定してほしくない。
「お年寄り(に見える人)に席を譲る」のは、あくまで〈年配の〉乗客が〈年配ではない〉乗客にくらべて、体力や体調などに不安要素を抱えていて立つのが大変である可能性が高いからであり、またその可能性を想定しやすい(外見的特徴として分かりやすい)からだと私は考えている。
けれど、例えば車内で急激な腹痛に襲われていたり、低血圧だったり、パニック障害などの精神的な不安要素を抱えていたりで、〈外見的には何の問題も無いように見える〉が、立つのもやっと、或いは、立っていられない状況の乗客は、年配であるか否かという基準に関係なく存在する。というか、今日、自分が突然そのような状況になるかもわからない。
(実際に、車内放送で呼び掛けられた〈年配ではない〉特定の乗客が、「昨日、大きな手術を受けたばかりだ。タクシーを呼べないから(バスに)乗っている」「何度も言われて座っているのには理由があるのだ」と返答していた。)
この路線に乗って長いが、今日のようなアナウンスを聞いたのは初めてだったので、それが運行会社の新たな方針なのか、その運転手個人の主義に基づく主張なのか不明だが、釈然としなかった。
立って乗車する余裕のある人が立つべきだとは思う。けれどそれは、あくまで立つ余裕のない人に対しての、個人から個人への配慮ではないのか。
「高齢者⇒席を譲る」「妊婦⇒席を譲る」という図式的な徳目は、根拠から行為のプロセスを単純化することで、その配慮行動(席を譲る)を誰もが深く思い悩まず実践できることに、寄与している。
しかし、思考を硬直化させ、想定以外の可能性を考慮しなくなることで、その配慮の本質は形骸化してしまう。形骸化した配慮行動を上から押し付けることで、見えにくい困難を抱える人を排除しないでほしい。
鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。 だな。
老人、妊婦のステレオタイプ化問題だな。 黒人差別にもつながるふかーいもんだいなのです