ある人はマルチ商法の人(社会人としてまともそうな格好をしていた)
ある人はバイト先の先輩(東大生だということだったが、今では引きニート)
ある人は中学の先生(思い返すと暴力を振るいまくってるありがちなキチガイ教師だった)
ある人は、、、
まあ、いいんだけど。
こういう言葉って、たとえば遅刻とかそういう時に言われるんだけど、
どこまでも虚無な感じに聞こえる。
結局、社会人としてうまくやるっていうのは、
深刻な犯罪とか人生取り返しがつかないミスとか、精神病にかかるリスクとか。
別に目の前の小さいことがちゃんとやれるとかやれないとか全く関係無い。
一言で言って印象論にすぎないと思う。
どーでもいいよ、遅刻したとか、締め切り守れないとか。流されてる人がいくらでもいるのに、なぜ守ることがさもえらいとなるのか。
富樫でも道楽してる会長でもなんでもいいよ。いくらでも例外がいるのに、そんなにデューティーが大切か?
そんなの気にして精神病にでもなるほうが遙かに人生の損失だわ。
で、言ってる人にしても、頭が悪いと思う。
そんなもん分かるわけ無いだろと瞬間わかるレベルの話なのに分からないから。
でも、そういう一種信仰というか、「社会的に認められる物をこなせる私ってまともだ!」って思いたい意識高い系?みたいな感じが彼らの宗教的な生き方そのものなんだろうなとも思う。
ダマされる理由も納得できるというか、
「ちゃんと時間が守れる人間でないと、社会的に認められる人間になれない」→「楽しい人生おくれない、リア充になれないぞ!」
多分、小学生が先生の言うことを聞くのが賢い子って言われるのと同じ理由なんだと思う。
別に楽しい人生なんて送れなくても、普通にいいじゃん。っていう人生が理解できないし。漫画みたいなキラキラまともな感じの中二な生き方が出来ないと納得できない、という感じなんだろう。
だが、結局、彼らはマトモになったのか?
はっきりいって、宗教的な話と変わらないと思う。
そんなんじゃ社会人としてやっていけないよ