商店街の自営業の店で育った僕は、やくざはそんなに遠い存在ではなかった。
幼少期のぼくにとってのやくざは、父親の友人で、お小遣いをくれるサングラスのおじさんだった。
年に最低2回は決まった時期にやって来たことを覚えている。
よくついていった。お小遣いを貰えるので欠かせない財源だったが、酒臭くて長くはいなかった。
お気に入りの椅子が奪われるのを知っていたが、迎い入れるとお小遣いをもらえたので
それまでは遊びに行くのを我慢した。
僕が呼ばれることは無かったが、写真を見たことがある。
今思えばあんな店町内にあったのか?と不思議だ。
お誘いのために、家にヤクザがやってきたのをよく覚えている。
父親が普段とは違った態度で友人と接してたことや
小遣いを貰えるまで遊びにいけないのは僕の自由意思じゃなかったことを知った。
知識を得たから、そう思っただけかもしれない。
近所の蕎麦屋のオヤジ、自治会の会長、父、そしてヤクザが、一緒に酒を飲むことはあった。
最後に会ったのは高校時代だと思う。最近は厳しくなってねえ。と、挨拶に返された。
卒業後に東京に行くことを話すと、賢いから大丈夫だ。親父さん似だ。と、応援されたが
その頃、父が嫌いだったから、似てるというそれはとても不快だった。
後になって知ったが、その頃、90年代の前半は、暴力団対策法というものが施行されていた。
警察どころか一般の店が大手を振り、暴力団反対と言いだしたのだ。だから厳しかったのかもしれない。
警察と言えば、僕が知っているヤクザと警察の関係は、なあなあだった。
家にお巡りさんが訪れると、○○ちゃん元気?悪いことしてたらいってよー?ぐらい陽気だった。
派出所のポスターが胡散臭く感じるのは、当時からでかでかと暴力団追放ポスターがあったからだと思う。
その関係も、あの頃を境に変わったのかもしれない。派出所のお巡りさんが○○ちゃんの安否を訪ねることも無くなった。
僕が東京から返ってくると、商店街はシャッター商店街に生まれ変わっていた。
父も店を閉じた。父の理由は、年齢と売上というありきたりな理由だ。
ありきたりな理由だから、それがバブル崩壊の不況なのか、駅前整備のショッピングセンターなのか、
他に理由があるのかも分からない。
結びつけるのもおかしいが、もしかしてヤクザもと思うことがある。でも、まあありえない。
あの頃は、色々重なりすぎてて、なぜそうなったかなんて分からない。
年末に入れ墨の件で、誘いに来たヤクザのことをふと思い出した。
僕にとって、入れ墨銭湯禁止は、排除ではなく、他の人への注意に見えていた。
そこにはヤクザがいるんですよ。という印。
もう20年も立ったんだなと思う。
僕の知っているヤクザはもういない。
もういい年なんだから「僕」じゃなく「私」にしようか