この週末に友人が死んだ。同い年が死ぬとなかなか心にクルものがある。
同じ高校を卒業し、そこから進路は別れ俺は進学し、彼は地元の工場に勤めた。プレス業だった。彼の死因はプレス機の事故だった。2か月前だというのに入院したままこの世を去った。
モノづくり日本、中小企業の町工場が技術んの主力とはいうけれど、彼の職場を一度見たことがあったが、素人目にも古い機械ばかりだった。古い機械、つまり、安全性が最新ではないということだ。事故を予防するために工作機械は刷新されているのだろうけど、そんな最新の機械を導入する余裕なんて中小企業は持ち得ない。操業者の命を掛け金に今日も古い機械が動き続けている。たまに悪い目が出た時に今回のような不幸が起こるのだろう。そんな納得なんてできやしないけど。プレス機に限らずいろんな機械が今日もモノを作り続ける。俺の仕事は一日椅子に座ってPCの画面を見続けるだけだ。精神は病んでも命の危険はない。でも誰かが命を掛け金に生産をしなければならない。それが自分でなかったというだけだ。
学歴派の人なら、低学歴は命を掛け金に働く道を「選んだ」というのだろうか。しかし地方では彼の選択肢はめずらしくない。東京では命を懸けない仕事がたくさんがあるが、地方は命がけの仕事が多いのだ、と今、東京で暮らして感じる。そんな仕事を3Dプリンタが減らしてくれるのは、いいことなんだろうか、わるいことなんだろうか。3Dプリンタの性能向上と普及は誰かの仕事を奪うだろう。しかし命を救うだろう。大学進学率の上昇は命がけの仕事に就く確率を下げるだろう。誰かがしなければならない仕事だが。誰がするんだろう。妥当な創造としては第二次産業はASEANの仕事になるんだろうか。いま使っているPCも、ここまで来ているインターネットのケーブルも、配線も、間の機器も、海底ケーブルも、サーバ構築も、運用も命がけなんだろう。