一応言っといた方がいいっぽいので言っておくけど、
君があまりにアホなので皮肉をこめてわざと伝わらないであろう書き方をしたんだよ。
しかしあのレスが煽りのつもりでないとしたら、気をつけた方がいいよ。
それこそなんも伝わらないよ。
まず「法治国家」の定義からだけど,国家権力が法律に従って動くことを言います。
だから脱法ハーブを売ったり使ったりしてる人に対して,警察(国家権力)は手を出せない。
このかけ算の順序問題を論じる場合に多くの人が見落としている重要な点は、これが小学校2年生の授業であるということだ。小学校2年生の算数では足し算の拡張としてかけ算が導入される。この時点ではかけ算は足し算と切っても切り離せない関係にある。
どういうことかというと、
□+□+□+□+…+□
のような同じ足し算を☆回くりかえした計算を「□×☆」と表記する、と習うのだ。つまり、この時期においては「3×5」は「3+3+3+3+3」の省略形であり「5×3」は「5+5+5」の省略形でしかない。
こう考えると、「一個10円のリンゴを3個買いました」の式が「3×10」ではいけない理由がよく分かる。この問題に対する式は「10+10+10」でなければならず、「3+3+3+3+3+3+3+3+3+3」では間違いなのだ。
このような、足し算と任意に書き換えが可能である限定された演算であるかけ算と、小学校3年生以上で習う一般化された抽象的なかけ算を混同してはいけない。後者のかけ算では、かけ算の定義域は0や小数、分数にひろがっていて足し算との関連は失われている。さらに抽象化された中学以降の数学では、定義域は負の数、未知数、数式、複素数、環と拡大の一途をたどる。この時点でかけ算の順序を問うことには意味は無い。しかし定義域が自然数に限定され、足し算との相互変換が可能な2年生のかけ算では、可換則は自明ではなく順序が本質的な意味をたもっているのだ。
本当にお礼のつもりだったんだが。
気に触ったのなら謝ろう。ごめんなさい。
あの手の議論が紛糾する問題は往々にして、
一方の(明示しない)常識が、他方の常識ではないからこそ起こっているっぽいなと思ってたので、
自分のこういう常識をそのままぶつけてもコミュニケーション成立しないだろうなぁと思った次第。
自分の興味は、どっちが正しいかではなくて、何故議論がこじれるのかにあるから、
そいつはただの馬鹿だから勝手にそいつを全体の対象者にすんなや。
数学は人間が作った道具に過ぎないに決まってんだろうが。アホか。
でだ、問題は、そのアホみたいな順序決めを、一生そのまま使えるのか?って話だ。
一歩中学に入ったら、そのアホみたいな教えは180度変わって「間違い」になる。
なんでわざわざ小学校の時に「間違え」を教えなきゃいけないんだよ?って話だろうが、アホか?
その教えが、単に大きな枠組の中の「一部」であり、簡単なことだけ最初に教えよう、というならいいんだよ。
だがしかし、そこで「嘘」を教えて、あとからそれは説明のための嘘でした、なんて言って誰が納得する?
他の事でそんな説明あったら誰も納得しないだろ?
ましてや小学生だ。まだ何も知らない段階でそれが「正しい」と教え込まれる。
そうするとそれが絶対の概念として根付き変えられなくなって、中学に入ってからも可換だということを受け入れられずに挫折する奴が増えるだけだろ。
だから利点よりも弊害が大きすぎるって言ってんだろ。
日本にもし殺人罪の規定が無かったならば,殺人行為も問題ないと言えるであろうか。
別の言い方をすれば,犯罪とされる行為は,法規制が行われることで初めて問題が生じるのであろうか。
悪性のない行為を規制する刑罰法規があったとすれば,それは不当であり,おそらくは憲法13条等によって無効とされるであろう。
また,悪性のない行為は,多くの場合,そもそも規制しようという発想すら生じないであろう。
規制法規の制定に先立って,その行為の善悪についての判断が存在する。(刑罰法規の制定によって,この悪性は刑法学の用語における「違法性」となる。)
これをいわゆる「脱法ハーブ」について言えば,脱法ハーブの悪性については(少なくとも立法者にとって)確固たるものとして認識されており,今やその関心は専ら規制手段のみに注がれている。
分子構造ごとに指定するという立法技術上の技術力不足のために,新たな幻覚物質(脱法ハーブ)が売り出されるたびにそれを指定するというイタチごっこを繰り返しており,分子構造の主要部分を以て包括的に指定するという立法技術の研究開発を行っている途上にある。
「左の逆」じゃないの?
就活中で、片っ端から書類送ってたらエンタメ系の会社に面接に行くことになった。
歌下手だしカラオケも行かない。そもそもインドアなので外に出ない。
好きなアーティストは誰ですかって聞かれたらどうしよう。
本気でいないわ。
堀江由衣良い声だわーとかならいくらでも言えるが。
もう本当困る。
そうでない奴は市立図書館などにこぞって行っていた。
(高校の図書館なんて勉強するような雰囲気ではないので学校の図書館で勉強する雰囲気はなかった)
俺自身はそういう人が沢山いる所が嫌なので図書館などほとんど行ったことは無かったが
一度、友だちに誘われて市立図書館に行ってみた。
そしたらビビったねえ、もう、机という机がびっしり埋まってるわけ。
んで、話を聞くと、席を確保するために朝から並ぶやつとかも居るとこかいうわけ。もう本末転倒どころの話じゃないよね。
んで、そういう奴らがどういうレベルか。笑っちゃうようなレベル。
自分の学校が地域で一番の進学校だったが、ほとんど他校で、お前らどの大学行くために勉強してるの?的なレベル。(某弱小県なので、ホントにトップ校くらいからしか万が一にも旧帝とかいけないようなレベル)
一部同じ学校の人間のやつも居たが、それも皆、どうしようもないレベルの奴らのみ。
そんな雰囲気が気持ち悪くて1時間もしないで帰って2度と行かなかった。
まだ、塾とか、きちんと整った机があって且つ気軽に質問出来るチューターが居る、とかならわかるが、
図書館で勉強してる奴らってのは100%勉強してる自分に酔ってるだけで実際出来てない奴ばかり。
授業中に他の授業の宿題とか「内職」と称してがつがつやってるような奴も同じ。やってる自分に酔いたいだけ。そしてだからこそ実際には出来てない。
そういう連中が大人になると、仕事をするのに場所を選ぶ、というようになるのだろう。
ノマドになる人間は稀だからあれだが、何か考えるでも、カフェでないとダメだ、自宅じゃ集中できない、と言ってる様な連中は正にそれ。
100歩譲って、カフェだとコーヒーを人が作ってくれるし食べ物もすぐに貰える、とかなら分かる。
だが、集中出来ない、という理由でカフェに行く連中は上の図書館に行っていた学生同様100%仕事ができない人間だ。
そこでやってる自分に酔いたいだけ。
そこに行って満足したいだけ。
まだただの自分勝手なら良いが、スタバとかその程度の珈琲屋で長時間いられると店側としては利益にならずに迷惑だし、
世の人の言う、「恋人が欲しい」ほど私にとって意味不明なものはない。
今で言うところのリア充?昔で言うところの所謂一般ピープル?の「恋人を作る」という感覚が、本当に若い頃から謎だった。
この人が良いから今日から恋します、ってそれ恋じゃないだろう。作為だろう。
ある日、ふと「この人がどうしようもなく好きだ」と気付く。
そりゃあもう絶望的なくらいに。
対象を選びたくても選べない。
やめようと思ってもやめられないし、その頃には充分に頭がおかしくなっている。
相手は何を考えているのか、どう思っているのか、常に気になる状態。
触れたいとか触れたらどうなるかとか、思考の迷宮でぐるぐる彷徨してみたり。
ちらとでも目にした途端、相手のことが頭の中の何割かを占拠して、どかそうとしてもどいてくれない。
何故そんな狂気の状態に敢えてなりたがるのか。
そんな状態を何故美化してありがたがるのか。
また、そういうふうに頭がおかしくなってないのなら、愛であったり情であったりしても、恋ではないんじゃあないのか。
幸運にも両者が恋愛の狂気が生む幻想を共有できた時だけに、本当に奇跡的に「何故かなっちゃってる」ものなんだよ。
単なる知名度の差だろ
家でやれよ、邪魔だろ。
少なくともスタバ程度の値段でそんな長居するような客を計算してるわけじゃない。
お前のオフィスじゃねーよ。
なぜアグネス・チャンが大使を務める日本ユニセフ協会が何故とりわけ槍玉に挙げられるのか。
(もちろん、それだけが理由ではないことは言うまでもないがここでは割愛する)
「中国人」であるアグネス・チャン(英領時代の香港生まれなので国籍はイギリス(厳密には本国生まれと扱いが異なる))が
ネトウヨの感情を刺激したからこそ、これだけ燃え上がったのだろう。
もし広告塔が韓国人だったらどうだったのかといえば、似たようなことはあったのかもしれないが、
少なくともチベットやウイグルを引き合いに出した非難の声はないだろう。
あと、もう一つ。アグネスが槍玉に挙げられていることによる影響を上げておく。
誰かがはてブで言っていたように、アグネスは弾除けの役割を果たしている。
他の団体や、警察、自民党の中の規制推進派が取り上げられることは少ないし、
ネトウヨ、とりわけ自民信者は自民党が規制推進寄りの姿勢を取っている現実や、
アグネスと安倍総理の交友関係などの不都合な話から目を背けることができるわけだ。