会社の寮を出て本当の意味で一人暮らしになるにあたって、いろいろと安く済ませようと四苦八苦している。
でも、支出と収入という2点から見る限りで、支出を減らすための努力よりも、収入を増やす努力をしたほうがよっぽど建設的なんだよね。
支出を一時的に減らせたとしても結局それは一時的なものでしかない。
まして、苦労やストレスに代えてまで支出を減らしても、結局トータルのコストという意味では、よくてプラマイ0、悪けりゃマイナスなんてこともざら。
収入を増やすことができれば、悪くてもマイナスになることはない。
だから、金銭的に豊かになりたければ、支出を減らすよりも収入を増やす努力をしたほうがいい。
・・・と頭ではわかっちゃいるんだけど、現場ではついつい少しでも安いものを、と考えて支出を減らす労力を惜しまない自分がいる。
元増田が言ってるのは「根性があるというお墨付きを頂ける」ということだろ。
鬼教官がいるような組織では「鬼教官の罵倒に奮起できるような人間」=「根性がある」とみなされている。
実際に根性があるかどうかはまた別の話。
出会った瞬間から恋愛対象としては見ないけど、セックスの対象になるかどうかは即座に判断される。自動的に。
そこで対象外だと、友情であろうが恋愛であろうが基本的に仲良くなることはない。
仮に止むを得ず仲良くなったとしてもセックスの対象外なので、恋愛はありえない。
入り口が全て
http://anond.hatelabo.jp/20130218131400
イメージで語ってる人が多いよね。ごちゃごちゃ書いてるみたいだけど、実際の写真集見たことあるのん?
男性モデルが自然なポーズしていてありのままの姿が写っているだけだと思ってるでしょ?違うよ。
1000部限定だったりするから手に入れるのは難しいけど、それなりの検索用語でいろいろ出てくる。
アートだろうがポルノだろうが関係ないって書いてるから、もしかして見たうえでの主張なのかもしれないね。
資本主義社会において、根性なしでも生き残れる仕組みを考案できたなら、革命どころの騒ぎじゃないと思うぞ。
元増田が本当にそんなことが可能だと思うなら是非やってみて欲しい。
2010年4月に発売されたXperia(SO-01B)に飛びつき、割賦払いが終わった2012年初頭に買い換えたのがネットでもクソ扱いされてる機種で、熱暴走しまくりバッテリ切れまくりを来年春まで我慢せにゃらなんという人をちらほら見かけるんだが、彼らは前世でどんな悪逆非道を働いてきたんだろうな。
なんか変な奴まで沸いてきたから答えるよ。
うむ。勤務中に書くにしては長すぎるな。
まあ、心配との友人との接し方も難しそうだね。
あんまウザがられるようなことも言えないから、
ある程度そっとしつつ、どこの部分を手助けできそうかゆっくり見極めてあげたいところだね。
アピールしようにもさ、他の国だったら当たり前に
「私はこういうスキルを持っている為、こんなメリットありますよ」
っとか言うけれど、これ言うと「社会をわかっていない」、「調子に乗っている」ってなるでしょ?日本の企業は
「こういう人、こういうスキルを持つ人を取りたいから、本音を引き出すためにこういう質問しよう」とかじゃなくて、粗探しばかりやっているから、そんな糞みたいな返ししか出来なくなるんじゃ無いの?
「死ぬまでの暇つぶし」って聞くけど、いまいち利己的な感じでしっくりこない。
では、子孫を残せなかったり、既にきょうだいが子孫を残してる人は、
子孫を育ててる人の利益になること、くらいが思い浮かぶ。
つか、何で人間は苦労して結局死ぬ死ぬしか言わなくなるんだろう。
生まれてから思春期くらいまでの、多くの人が守られてる期間のためだけに、
その後数十年の、何かしらの暗黒生活を送るの?
就職してからもうすぐ1年が経つ。友人がすでに2人休職した。1人は秋に、1人は年明けに。身近に出てくると急にリアルだ。まさかあの子が。
2人とも私よりずっと優秀で素直で根性があってがんばれる子だった。お前ちゃんと週5日朝起きられるの?大丈夫?、まぁ高校生の頃を思い出してがんばるしか…そして起きられたところで外に出る気力がわくかどうかは別問題なわけですよこの4年間の厳しい鍛錬の結果、いやそれ堂々と言うことじゃないから、と冗談飛ばしてたのがたった1年前なのか。
そのうち1人は2ヶ月に1度くらいの頻度で会ってたけど、会うたびに顔が青ざめていって、痩せたというよりもやつれていって心配だったから、休職を聞いたときもたいして驚かなかった。むしろ安心した。そういえば、平日の夕方にTwitterにあらわれたから気づいたんだった。平日は朝から晩まで全然ポストしてなかったから。あっても深夜に、今日は電車がある時間に帰ってこれた、って書いてたくらいだ。あれ、今日会社休みなの?、ううん今休んでるの、えっ風邪?、いやそうじゃなくて。
久しぶりに日が高いうちに会って(休みの日でも昼は寝てるから無理と言われて夜にしか会ってなかった)映画見たりごはん食べたりしながら、やっぱり賢くて優しい、大好き、と何度も思った。真面目で思慮深くて負けず嫌いで優等生で、どうして自分と仲良くしてくれてるのかわからないくらいだ。でも私みたいなちゃらんぽらんな人間が近くにいるのは大事なのかもしれないなってはじめて感じた。自意識過剰みたいだけど。反面教師と見せかけて反面じゃなかったというか。
思えば「手の抜き方」って、学生生活がほとんどを占めたここまでの人生の中で、教えてもらう場所もおおっぴらに肯定される機会もなかったよなー。ひたむきにやることは当然褒められるし、従順で素直な子は大人に好かれるし頼られるし、努力は善だし、いやまぁ善なんだけど、なんていうか毎回100%出してたら死ぬよね。終わり、ないし。文化祭とか卒論とか引退とか卒業とかそういう区切りないし。しかも、仮に結果が出なくてもそこまでのプロセスが大事ですよ、という言葉ですべてゼロにされてきた今までの刷り込み。お天道様は見てます、的な。いやー、結果出ないなら見切りつけないと、という局面もきっとたくさんあるわけで。人よりも長く働いてたり考えたりしてること、それ自体がひとつの指標になっちゃう自己評価。がんばるのなんて損、とかじゃなくてアクセルとブレーキ両方使っていいっていう自覚っていうか。多分ここまで追い込んだのは周り以上に彼女自身だから。
もちろん当然労働環境ひどいとか長時間労働効率悪すぎだろとか言いたいことは山ほどあるけど、それでも真面目だからこそ斜に構えてないからこそこうなってしまうのは本当にただただ苦しいなあって思う。潰されるんじゃなくて休職でよかった、とすら思った。もうすぐ復職するんでしょ、月に1回くらいあなたの会社の近く行く用事あるから呼び出すね、ちゃんと時間つくって抜けだしてきてね、ケーキ奢ってね、と強引に約束して別れた。今まで頼ってばっかりでしたけど、これからはこっちがちゃらんぽらんに生きるコツを教えましょう。例えば勤務時間中に増田なんて書くような。うーん、もしかしたら、こっちはもう少し真面目になった方がいいかもしれないね。
相手の否定はしても、自分の事は書かんだろうな。
自分達の親の世代のスマホ選びに頭を抱える時期がもうすぐ、下手したら今年後半くらいからやってくるんだが、お前らどうするんだ?
http://anond.hatelabo.jp/20120731161407
ある分野の指導がこういうノリ一辺倒とか、本当にそれでいいのだろうか。
読んでて思ったんだけど、人材として偏っている資質が求められているから、組織の将来性・可能性が制度として固定されてしまっているのではないだろうか。
なので、こういう育ち方、育て方にNOを突き付ける必要が出て来た場合、結局、組織そのものにNOを突き付ける必要が出て来てしまい、見た目極端な「組織のぶっこわし」が求められてしまう、ということなのかも知れない。
知人との世間話で、
・素人でも想像がつくわかりやすい相場はなかなかないのにもったいなかった
という話をしたら、
そういうすぐ買って売っちゃっうような行為って企業は困るんじゃないの?
そんなことばっかやってたら結局景気後退につながって自分の首をしめることになるんじゃないの?
って言われたけど、株式だとか為替の役割的なところがよくわかってなかったのでうまく反論できなかった。
買う人売る人がいるからむしろ存在できてるっていうのはわかるんだけど。
マネーゲームとして見てもなんで問題ないの?
実際どうなのか教えてエロい人。
自分の専門性を熟慮してどういう仕事を志望するかを考えてきた新卒を人事異動で全然関係ないところにぶっ飛ばすのが日本企業なのに、何ほざいてんの?って感じだな。
スルーしそうになっていたのだけれど、我慢できないのでやっぱり書いておきます。
ガガ撮影写真家逮捕 レスリー・キー容疑者“男性器写真集”販売
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/02/05/kiji/K20130205005128840.html
わいせつか芸術か……有名写真家レスリー・キー容疑者逮捕で物議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130204-00000036-rbb-ent
【衝撃事件の核心】「紀信さんに憧れ…」越えた一線 ガガさんら撮影、有名カメラマンの写真集は男性器のオンパレードだった
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/130216/crm13021618000012-s.htm
写真家の猥褻罪での逮捕は十年一日のごとく繰り返されているけど、そのたびに「あの写真集にチンポが写ってた!」「マン毛が写ってた!」と中学生のごとく大騒ぎ。まるでアホです。
そのつど繰り返されるのが、お馴染みの「これはアートなのかポルノなのか論争」。しょうもなさここに極まれり。
いいですか。
なぜなら、レスリー・キーは写真学校で写真の訓練を受けて、ギャラリーで個展を開き、問題の写真集も、ギャラリーで販売されたものだからです。
ギャラリーに置かれたもの、美術館に置かれたものは、アート作品です。これは自明です。便器に「泉」って書いて置いてあってもアート、缶詰めのパッケージをプリントしたやつがあってもアートなのです。
別に、俺はこんなものアートとは認めない! っていう人がいてもいでしょう。しかし、俺は蕎麦は手打ちしか蕎麦と認めない! っていう人がいても、実際に流通し消費されている手打ちじゃない蕎麦が存在し、蕎麦であるように、アートも、美術館やギャラリーにあるもの、またはそれら周辺の制度で評価されているもの、ぐらいの定義しか、もはやできないんです。象徴的にいうと、デュシャン以降、ウォーホル以降は。
アートの枠組みを問うこと自体がアートになり、行き着くところまで行った結果こうなりました。
理想化された神話的なヌードから、生身のネイキッドへの転換という美術史の流れで起こった論争など、はるか昔の話しなのです。
生身の裸がエロティックに表現されていたからといって、アートではないといえたのは、近代以前のことです。
無論、ここでの「アートである」とは「アートとして優れている」ことを必ずしも含意しません。
アートだからすべて偉い、崇高なものなんだ、というのは単なる権威主義です。
作者の慰みにしかならないような、誰にも評価されないクソみたいなアート作品もあれば、社会や人間に対する深い洞察を含んで、歴史的な鑑賞に耐えるポルノもありうるのです。
純文学とライトノベル、どっちが素晴らしいのかを問うようなもので、しょうもない純文学もすごいライトノベルもあるに決まっている。
警察は、チンポが写った写真集が売られたら捕まえる。これは、まあ、当たり前です。そういう法律があるんだから。
夜中にクラブで客踊らせたら逮捕されるのと一緒で、そういう法律があるんだから、逮捕も起こりうるでしょう。法治国家なんだから。
むしろ警察が芸術か否かを判断して法律を運用することのほうが不当なのではないかとも思います。
アートかポルノかなんて警察に判断できるわけがないし、されるべきでもない。
では、どうすべきか。
この場合、真に批判され、変わるべきは警察ではなく、こんなカビの生えた法律を放置している日本国民の意識である、と私は考えます。
根本的に間違ってるのは、警察ではなく法律なんです。そして、アート/ポルノ論争とか始めてしまう、ダンスは健全な文化なのか論争とか始めてしまう、幼稚な日本人です。
どれだけ俗悪で、低劣な表現であっても、被害者がいない限りは、ある朝突然、国権に身柄を拘束されることがないのが民主主義なのではなかったのでしょうか。
タテマエでは日本では猥褻なものは売られていないことになっている。これが欺瞞でなくてなにが欺瞞なのでしょう。
アダルトビデオにモザイク入れて、警察の天下り機関でチェックして、これはモザイク入ってるのでポルノじゃないです、猥褻じゃないですって、これが茶番でなくてなにが茶番なのでしょう。
ポルノ大国の日本で、写真集で外国人の写真家が逮捕されたというニュースは、海外からはどう見えるんだろう。
ちなみに、私はレスリー・キーの写真が低劣だと言いたいわけではないです。むしろ、写真集持ってるぐらいには好きです。腕もあると思います。
彼の仕事は、LGBTアクティビズムとしても、アートとしても、ポルノとしても、素晴らしい価値のあるものだとおもっています。
実は、ヌード撮るのってすごく難しいんですよ。嘘だとおもった人は、手持ちのカメラで自分の裸を撮ってみてください。立体感も質感もなんもない、みすぼらしい写真のできあがりです。
実は、ただのゆで卵でも、陰影をつけながら、その白さや丸さを撮影で表現するのすら、すごく技術や経験のいることなんです。いわんや人間を美しく、そして自分の表現になっている写真にすることはとても難しいことなんです。
写真というのは、見たものが見たまま写るというものではないです。たとえば、見慣れた花が、写真家の写真でみると、とんでもなく艶かしく、エロティックに写されたり、グロテスクに写されたり、ロマンティックに写されたり、こんな世界の見方があったのか! と驚嘆できるのが写真です。
当然ヌードも、そこには様々な解釈があり、無限の文脈があるものなのです。そこにモザイクという検閲が入ると、文脈は抹消され、猥褻なものがそこにはあった、という意味だけが立ち上がってしまいます。性器を隠した不自然なポーズやトリミングも同様です。
もちろん、春画などの例をだすまでもなく、ポルノもアートとして制度に回収され、認められる場合もありますが、現状、猥褻の線引きは、鑑賞者や捜査員がエロいと思うか、勃起するか否か、メールヌードに至ってはペニスが写っているかで判断されてしまいます。この思考停止。
ポルノは(特に性的少数者のそれは)作者が自分自身にとことん正直な、まさにパンツを脱いだ嘘のない表現に出会える数少ないジャンルです。どれだけ反社会的に思われ、政治的に正しくないものでも、実存の奥底にある、どれだけ押し込めても潰しきれない、人間のどうにもできないものが表現されてしまうのがポルノです。その凄みや執念は、アートのそれを上回るとさえ思えます。
我々は、アートやポルノ、健全さや猥褻さの枠組みの中で表現を擁護するのではなく、そして巧拙で擁護するのでもなく、低俗か高尚かで擁護するのでもなく、すべての表現を、すべての表現者を守るのだ、と宣言するべきなのです。
しかし、このニュース関連のツイートや、ダビデにパンツ履かせろクレーム、会田誠騒動などをみていると、法律を変えるなんて、あと数十年は無理っぽいですけどね。
ややこしい国に生まれたなあ……。
「カネがほしい」でいいじゃん。
「それならよそでもいいだろ」と思うならなおさらおかしい。「(クソな企業じゃないなら)よそでもいい」のは当たり前なんだから。