私の中の言葉たち。あるいは言葉になる前の形のない断片について。一言言っておきたいことがある。
こうした前口上に、疑問文は繋げない。格好がつかないから。使わない。代わりに、できるだけ端的に。断定的に。断罪的に。ともすれば詰問調にて、私は記さねばならない。
例とするのならば、逃げるな、と。あるいは、消えてはならない、と。場合によっては懇願すら交えて、どうかそのまま留まっていて下さい、と。私は彼らに告げなければならない。
私は、私の中を漂う形のない言葉の断片についてひどく愛着を持っている。独善極まりない自己愛ではあるけれど、捉える前のまわりを漂っている無数の欠片からは星屑のような煌めきが発せられていて、それらの海に踊り遊ぶことは、私の中の刹那的な人格においてとても重要で、不可分なものとして抱き合わさっている。
素敵な素敵な輝きだから、形あるものとして記しておきたい。願いはごく自然に、当たり前の事柄として湧き上がり、思考は行為に、私は漂う断片に手を伸ばして掴み取ろうと試みる。
するとどうだ。先ほどまで眩しいほどに輝いていたはずの欠片が、一片も見当たらなくなっているのである。ここにも、そこにも、あそこにも。どこにもなくて、消え失せてしまっているのだ。
無論、断片は私の中を漂っていたのであり、私以外のどこへにも移動することなどありえない。私は他者になど成り得ないのだから。断片は私から決して逃れられはしない。
にも関わらず、私は私の中に漂っていたはずの断片を見失い、隠匿されてしまい、間々途方に暮れてしまう。
また逃げられた、と。居なくなってしまった、と。思う一方で、そもそもほんとうにその断片は存在していたのかと、馬鹿げた自己問答に陥りそうになってしまう。
断片が失せた空間はひどく空虚で、伸ばしたはずの手も、用意していたはずの言葉も呑み込まれて、残すべき記号も、目を奪われたはずの象徴も、空白のうちに失われてしまう。
そうしてただ、断片に触れていた、という感触だけが残り、虚しさがこんこんと込み上げてくるのである。
その程度の輝きだったのだと割りきってしまえばいいのかもしれない。反対に、その程度の捕まえ方しか知らないのだと落胆するしかないのかもしれない。
逃げられて、見失って、取り残されて、私は呆然と寂しさを覚えながら、情けなく声を上げる。
恨みがましい呼び声は、きっと断片には届かない。