2012-02-27

とある asexual (この語が適切かは知らない) の独白

ある程度考えがまとまってきたし、変わってきた部分もあるので書いておく。

自分性的欲求から自由でいられることは、非常な幸いだと思っている。周りの人たちが、この感情のために、いかに多くの葛藤を背負い、混乱に巻き込まれてきたことか。

なるほど、「この人と話していて楽しい」「この人の過去現在未来もっと知りたい」「この人をもっと応援したい」と思うような異性には何人か出会った。よく「相手が見つからないのは環境が悪いから」という人がいて、それもいささかの真実を含んでいるように感じる。同じ興味関心・夢を共有している人は魅力的に映る。けれども、それは年長者が年下に対して感じるような、あるいは教師が教え子に対して感じるような親密感であるように思う。実際、同じ感情を同性に対して抱くこともあった。

やはり、端的に言って、普通の人と何が違うかといえば、性的欲求を相手に対して抱くかという一点に尽きると思う。普通の人は、性的欲求を感じるから独占欲が生じる。あるいは、1対1関係という社会的道徳的要請が生じる。友人が多いのは賞賛されるのに、恋人が多いのは賞賛されぬのは、ここに原因がある。私は、普通の人にとっての恋愛関係に近いまでの親愛の情を相手に感じることもあるが、性的欲求を感じない、独占欲を感じない。

自分は、性的なことに対して neutral な見方を持っているか。これは非論理的なことだと認めるが、neutral ではない。性嫌悪的なところがある。性的ものは見たくない。人前でできる程度のキスをしているのはよい。だが、それ以上は気持ち悪い。おぞましい。何かの弾みに、性的バナー広告が目に入るのが不愉快だ。

上に性的欲求を持たぬと書いた。本当に0かは分からない。異性を見て、美しいと思うことがあるからだ。9割方は自然風景芸術作品に対する感情と同じものだと思っているが、同性に対してより、異性に対して感じることが多いのを見ると、まったく性的本能と無関係とは断定できぬしかし、美しいと思っても、服の下を見たいとか、触りたいと感じることはない。これは本当だ。むしろ、服に包まれていてこそ、魅力があるように感じる。露出度が高くても、美しいものはある。だが、法律で禁止されるような局所は見たくない。水着の下に突起とか裂け目を想像したくない。そこはのっぺりとした平面であるべきだ。

社会的な(人生観的な)理由で、子供がいらぬというのではない。確かに、自分世界観として、仏教的とでもいおうか、生まれてくること自体が苦であるという思いがある。だが、苦でなかったとしても、子供はいらぬ。積極的に欲しがる理由がない。

2014/1/02 追加: 本記事は CC-BY ライセンスします。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん