2011-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20110704042620

一体どっちが本来のありかたなのでしょうか?

社会契約存在しない状態においては、前者。

というか、そもそも「罪」と言う概念がない。

そこに社会契約が発展、「所有物」や「権利」という考え方が発生する。

その時点で、他者の「所有物」や「権利」を犯した場合、「罪」になるという考えに至る。

生まれた時から社会契約に縛られる現代日本においては、教育によって「罪」という概念が教えられるはず。…なんだが。

まぁ、現在教育がどのようになってしまっているかは察しの通りなわけで。

「罪」と言う概念希薄な輩が大量に存在していると。

そういった人間は、

罪は重くも本人の心身はいたって健康

である訳だ。

一方、親のしつけや教育甲斐もあって、きちんと「罪」という概念を持った人間は、

罪は軽くも本人の心身はズタボロ。

となる。

社会的にとっては前者であればあるほど悪、後者であればあるほど許容できるといったところでしょうか。

今の日本裁判制度社会保護制度は、前者である「罪の意識希薄存在」を無視しているシステムな訳で。

から、「光市母子殺害事件」が問題化されたり、「生活保護」が悪用されたりするわけだ。

システム上、「罪の意識希薄存在」は存在しえないと言う訳。

なので、社会的には前者であればあるほど「悪」というよりは「得体の知れないモノ」「存在するはずの無いモノ」となる。

後者後者であるほど、社会契約保護し損ねた人となる。後者は大概社会保護し損ねた結果として犯罪に走る。

まぁ、前者も大元を正せば、ネグレクト等が原因で後者であった可能性も否定は出来ない(永山則夫 等)が…。

本人の心身を最優先にしたら前者の方が心身の健康上には良いのかな。

前者の場合、本人に「罪」の意識希薄なので、無理やり捕えられ裁かれるという状況であり、トラウマになりうる。

例えば、スピード違反

路上喫煙禁止条例施行の頃に逆切れする女性映像が流れていたりしたのもこういった類。

後者場合は、本人に「罪」の意識があり、裁かれたのだから後は社会が庇護して行くべき。

というか、本当に後者しか居ない社会であるなら、フィンランドのような刑罰システムへ移行することも可能。

この場合は、ズタボロにはなるまいて。

罪を反省しないほうが社会的にはNGでも本人にとっては良い

って状態は、本人が中途半端に「罪」の意識を持っている。

自分や他人の「所有物」や「権利」という概念を知っていながら、それを奪うのが「罪」という意識までは至っていない場合だな。

万引きとか、詐欺罪ってのはそんな感じかな。

記事への反応 -

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん